登竜門

初めて降りる岩国錦帯橋空港の風景は新鮮だった。

知り合いから「いつも広島空港を使ってるの?不便でしょ?遠いし。岩国空港は便利だよ」と言われてたのをふと思い出して、航空券の予約をする際に[岩国]を選択した。

飛行機は少し小さめだったが、新しくて快適。
最近よく新しい機体に当たるのだが、以前のものに比べて、座り心地も良いし、よく眠れるような気がする。
1年ほど前に3台ほどまとめて購入したBOSEのノイズキャンセラー機能のついたヘッドフォンをすれば、ジェットの「ゴォ〜」という音も、泣いてる赤ちゃんの声も全く気にならない・・・というか、気にする前に眠ってしまっているのだが(笑)。。。

 

で、いよいよ念願の(?) 岩国空港に降り立った。
時刻は午後6時30分、ちょうどクライマックス・シリーズ第3戦が開催されていて、黒田投手が投げ始めてる頃だろう。
空港には赤いユニフォームを着た方々も結構いらっしゃった。

そんな方々や、スーツに身を包んだサラリーマンの方々と一緒に駅までバスで移動。
・・・で、ちょっと驚く。
シャトルバスのような専用バスを想像してたのだが、ごく普通の路線バス。
しかし、お陰で久しぶりに見る岩国の街の様相が少し楽しめたような気がする。

そして JR岩国駅から山陽本線に乗り換え。
ホームにある喫煙スペースに喜び、そしてホームに入ってきた車輌を見て驚く。
「え?昔のグリーンとオレンジの電車じゃないじゃん!?」

なかなか新しい、スタイリッシュな車輌でゴトンゴトンと広島へ。
なんかこういうのも悪くないなぁ〜と感じていたのだが、都内からの移動時間が3時間近くになると、さすがに飽きてきた(苦笑)。
真っ暗で、外の風景を見れないからというのもあるだろうけど、大きなスーツケースを持って移動するには、ちょっと厳しいのかなと。

 

 

さて、今回の広島は、<クライマックス・シリーズ第4戦を観戦する>ということのほかに、もう一つ重大なミッションがあった。

実は、とあるご縁から、橘右之吉さんの書かれた書をいただくことになって。

橘右之吉さんと言えば、『笑点』の文字を書かれた橘右近さんのお弟子さんで、今や江戸文字の第一人者。坂東三津五郎さん襲名のときの文字や、中村勘三郎さんの文字などを書かれてきた方。

そんな右之吉師匠が昨年 広島で催事をやられた際にカープの優勝を祈念して書かれた作品を、一介のカープファンであるオレがいただくことになった。
[鯉昇]と書かれた書は、書に全然詳しくないオレが見ても素晴らしいモノだということが分かる。
一つ一つの線やハネの具合に、なにかグッと引き込まれてしまうのだ。
印刷や版木に彫られたものではなく、直筆だからこその勢いや緻密さも感じられる。

そんな”この世に一つしかないマスターピース”を頂くのは光栄なことなのだけど、この作品をウチに飾ってても・・・という思いばかりが頭をグルグルと巡り、「いや、これはウチに置くべきモンじゃないぞ」と。

で、自分なりに考え抜いた結果、広島東洋カープ球団に受け取っていただくことにした。
もちろん、右之吉師匠にも伝えていただいたところ、『へ〜、いろんなことがあるもんだね。やっぱりいろんなの書かなきゃだめなんだよね。ご縁はありがたい。』と非常にお喜びになったそうだ。

 

クライマックス・シリーズ・ファイナル第4戦の試合が始まる2時間ほど前、
球団事務所で球団取締役に手渡ししてきたのだけど、取締役も見た瞬間に無言になられてね。
そして一言、『セキュリティのしっかりしたところで、沢山の人に見て貰える場所に飾らせてもらいますよ』と。

その瞬間、ようやくホッとして身体のチカラが抜けたのでした。
値段の付けられない作品を運ぶだけで、なんか画商の方々のご苦労も ちょっとだけ理解できた気がしたのです(もう懲り懲りです)。

 

その後に観戦した試合で、カープは日本シリーズ出場を決めてくれたのでした。

 

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パッション

ひょんなことから脚本家の筒井ともみさん(失楽園・阿修羅のごとく,etc) と二人で旅をすることになったのだが、これまでに一度も仕事をご一緒したこともないし飲んだこともない。
プロデューサーさんが気を遣ってくれて旅の一週間ほど前に筒井さんのご自宅へ連れてってくれたのだが、大きなオーラや作品に賭ける凄まじい情熱、そして溢れまくる情報量に圧倒され、筒井さんのご自宅を出たとき ちょっと吐きそうになった(苦笑)。

そんな脚本界の大御所と 丸2日ずっと行動を共にさせていただくというのは非常に光栄なことではあるけれど、己の未熟さも充分に理解しているからこそ 何か粗相があってはいけないと下準備などは入念にやった。
なにしろ現地ではオレがレンタカーを運転することになってたし、不慣れな道をスイスイ行けるよう地図を何度も頭に叩き込んだりもした。

 

さて、旅の当日である。
「筒井さん、明日は八重洲中央口でお待ちしてますね」と前夜 連絡を入れると、「地下中央口が良いのだけど」と。
承知しました、モチロンそちらでお待ちしてますと約束した時間より15分も早くスタンバイ。
自信プリタツに「八重洲地下中央口に到着しました!お待ちしてます!」とメールを送ると、すぐさま筒井さんから電話が鳴る。「アタシ、丸の内地下中央口にいるのよ」と。

ダッシュで筒井さんが待ってる改札まで行き、汗だくで新幹線に飛び乗る・・・発車1分前。
吹き出す汗が止まらず、なかなか座れないオレを見て筒井さんは「アナタ、汗すごいわね」(笑)。
そんなドタバタから旅が始まった。

 
しかし、”これは大変な旅になりそうだな” というオレの予想に反して、筒井さんと一緒に行動する旅は とても有意義で楽しかった。
故・松田優作さんとの話や、様々な映画・ドラマ製作時のエピソード、そして昭和の数々の名作を生み出してこられたプロデューサーや監督の話などが筒井さんの語り部によって次々と細かに語られ、感動的な喜劇をずっと観てるようでもあった。

 
そんな筒井さんが時々じっと一点を見つめて黙る時間がある。
何かの声を聴いているのか、目の前の何もない空間で誰かが演じてるのを観ているのか分からないが、絶対に話しかけてはいけないのだということが感覚としてわかるのだ。
そして、そんな時間が数分ほど続いたあと、またニッコリとオレに話しかけてくださる。
・・・そのような時間が、2日間のあいだに何度かあった。

 

 

旅から戻り、一夜明けてプロデューサーから「筒井さん、とっても喜んでたよ」と連絡を貰った。
筒井さんからは帰りの新幹線で次回の旅の話をいただいてたから、おそらく またご一緒することになるだろう。
それまでに、今回の旅で筒井さんがご自身の口で、声で、オレの中に残そうとしてくださってることをしっかり整理しておかないといけない。

大御所とご一緒するのは大変なのだ(笑)。

 

 

25年ぶりの

今年の夏は、夏らしいことを殆どしないまま終わりそうだ。
だが、この夏だけで、自分が生きてきたうちの30年ほどを振り返る良い機会がたくさんあったように思う。
旧くからの友人やお世話になった方と数十年ぶりに会えるというのも何かの巡り合わせかもしれないし、そこにまた自分の役目があるのかもしれないとも思う。

 

さて、CARPである。

近年は”カープ女子”などの流行語もできたりして、なかなか観戦チケットが取りにくい人気球団になった感があるが、一昨年はクライマックス・シリーズ1stステージ敗退、そして黒田投手や新井選手が帰ってきた昨年は大きな期待をしたが、結果Bクラスという結果に終わった。
ところがどうだろう、今年は開幕からずっと勝率6割近くをキープ、これまで苦手としていた交流戦も上位でレギュラーシーズンに戻り、そして今や25年ぶりのリーグ優勝に向かって<マジック9>という素晴らしい状態である。

仲間同士での冗談で「今回が25年ぶり、次に優勝するときは死んどるかもしれんけぇ(笑)」などと言い合ってはいるが、やはり嬉しさは格別だ。
すべての広島出身者がカープ・ファンだとは言わないが、多くの広島出身者が、今年のカープの偉業に驚き、そして歓喜の瞬間を待ち望んでいると言っても過言ではないと思う。

 

 

ウチの親父が大学生の頃、広島市民球場でビールの売り子としてバイトしていたということもあって、小学生の時分から なぜか選手たちの控え室などは顔パスだった。
あの頃の市民球場は、選手一人一人にロッカーが無く、若手の選手たちは廊下で着替えたりしてる人たちも居たように記憶している。
当時のスター選手だった方々も、地元で試合があるときにはユニフォームを着て出勤(?)されてたようだから、オレの記憶違いではないと思う。

その、廊下などで着替えをされてる選手の方々に、油性マジックと自分が被ってるキャップを差し出してサインして貰えることの価値を、オレは全く分かってないガキだった(笑)。
池谷、衣笠、外木場、慶彦、ホプキンス、ギャレット、ライトル、古葉さん・・・という、当時でもファン垂涎の選手の方々のサインが、オレの赤いキャップにはところ狭しと描かれていて、「あの帽子、どこに行ったかなぁ〜。今、鑑定団とかに出したらわりと値段が付くだろうなぁ(不謹慎w)」というくらいなのだが、当時はその貴重なキャップを、三角ベースをやるときにグローブ代わりにしたり、砂を入れるバケツ代わりにしたり、あげくには公園に忘れて帰ったりもしてたこともあったくらい。あの頃のオレに会えるなら、懇懇と5時間くらい泣くまで説教してやりたい気分だ(苦笑)。

 

さて、そんなカープ・ファン(笑)歴40年のオレにとっても、今回の優勝へのカウント・ダウンは毎日が嬉しくて仕方ない。
実は、2014年のシーズン終盤頃、いろんなご縁をいただいてカープの応援歌を4名のサウンド・プロデューサーでカバーしてみようかという話になった。

鎌田雅人さん・小林俊太郎くん・Shifoという、多くのヒット作品を世に送り出している作家・サウンドプロデューサーである友人とオレ、そして元レコードメーカーのディレクターで企画し、関係各所と交渉しながら制作をスタートした。

すると、年が明けて黒田投手や新井選手が復帰するというニュースが飛び込んできて、「こりゃ今年は優勝するかもね。早めに仕上げようや!」ということになったのだが、各自 目の前の仕事をしながらということもあって、結局すべての作品が揃ったのがシーズン終盤、おまけにカープはBクラスに終わったもんだから、「年が明けて動きますか・・・」的な感じで2016年を迎えたのです。

そうこうしてると、年明けにエンジニアの森元浩二.さんと別件で仕事をした折に、森元さんがCARPファンであること、お父様方のご実家は今でもマツダスタジアムの真ん前にあることなどが分かり、「じゃぁミックスおねがいします!(笑)」。
・・・とにかくカープ・ファンで作り上げたいという思いが強かったのです。
メジャーのレコードメーカー何社かとも話をしたりしたのだけど、こんなご時世、なかなか進まない・・・というか、都内でカープ・ファンを探すのが難しいのと同じくらい同調してくれる人がいない中で、なんと”ウチの営業担当は、マツダスタジアムでずっとアルバイトしてました”というインディーズ・メーカーが出てきて、また、「渋谷の大手CDショップ旗艦店のJAZZ担当は広島出身のカープ女子なんです!」みたいな話も聞こえてきて、イッキに気持ちも盛り上がってきて。

「やっぱ人だよね」、「やはり”人”です!!」と口に出しながら(結局は他力本願なのだがw)、大変に多くの人にお世話になり始めた頃、カープの優勝の可能性がイッキに上がってきて、もうあとは その流れに乗っかってしまおう!的な感じで今日に至ります。
しかも、この作品の打ち合わせ中(6月初旬)に「このままいくと、8月終盤の巨人との直接対決でマジックが点灯するから、優勝は9月10日前後。だから発売は9月7日!!」と言ったオレの予言(?)が見事的中し、とっても縁起の良い発売日を迎えそうなのです。

 

 

9月7日(広島県内のみ9月1日より先行発売)に全国一斉発売の広島東洋カープ公認ピアノ・インスト・アルバム【CARP SOURCE~ジャズピ味~】は、10曲入り1,500円(本体価格+税)という破格な値段で発売になります。
音楽関係者なら「え?その値段じゃ全然利益でないでしょ?」という なかなかな価格設定ですが(笑)、2年の間に色んな巡り合わせがあり、そしてとっても沢山のカープ・ファンの方々に力を貸して貰って完成したアルバムなので、一人でも多くのカープ・ファンの方々に聴いて貰って、喜んで貰えたらいいなぁと。
そして多くのファンの方と同じく、優勝の瞬間を喜びたいと思っています。

 

 

跳ねるようなマレットの動きと、そして1曲1曲まったく違った顔を見せる木琴の音色にノックアウトされた。

 

平岡養一さんという巨匠から託されたという木琴は、とても繊細そうで、しかも弾きこなすには相当タフでないと扱えないようなワイルドさ、そして気品も兼ね備えた楽器だった。
姉弟子の両手から次々に弾(はじ)きだされる音の一つ一つに、緻密さと美しさがあり、気がつくと あっという間に公演が終了していたくらい、その世界観に引き込まれていたのです。

 

 

「待ってるからね。頑張って!」
・・・今から30年ほど前の京都河原町。
これまで殆ど誰にも話したことはなかったが、京都在住の早坂雅子先生(旧姓: 小笹)に師事していた時代があった。
中学2年くらいだったろうか、あるとき「音楽でメシを食いたい」と思い立ち、故・斎藤秀雄先生のお弟子さんで、地元でも指揮者としてご活躍されていた佐藤正二郎先生の弟子にしていただいた。
”弟子にしていただいた”と書いたが、そこに至るまでが、なかなか大変で(苦笑)。
佐藤先生のご自宅は、実家から電車で1時間、そして駅から歩いて40分くらい。
その道のりを、毎週日曜日に何度も通い、ご自宅の門から中に入れて貰えないので、門の前に正座し、そして10分から15分に一度インターホンを鳴らして、出てこられた先生に「弟子にしてください」と言っては断られ(笑)・・・を何週間も繰り返し、そしてようやく弟子入りが認められた時の条件も「必ず駅から歩いて通うこと」。
いつだったか、台風で暴風警報も出てて、河が氾濫しそうなときも歩いて通ったが、そのときは さすがに帰りは先生の奥さんが車で駅まで送ってくださった(笑)。
当時の佐藤先生は、もう弟子は取るつもりがないと仰ってて、とにかく無理難題を言って断ろうと思ってらっしゃったのではないかと今にして思う。

その佐藤正二郎先生の最後の弟子にしていただいて2年ほど経った頃、ある日いきなり進路を決められ、京都の小笹先生の門下に入るよう言われた。
佐藤先生は色々と考えていただいてたのだろうが、当時のオレや家族は寝耳に水で、かなりザワついた記憶がある(苦笑)。
そんなとき、商売人で腹の据わってるお袋は「先生が行きなさいと言われてるんだから、頑張りなさい」と背中を押してくれたもんである。

 

実家からドア・トゥ・ドアで2時間くらいの道のりだったのが、今度は片道3時間半。
小笹先生は、そんな経緯で門下に入ったオレの事情を知ってか知らずか、でも、とても愛情を持って厳しく指導してくれた。
腹が減ったと言えば、レッスン前に冷凍庫に保存していたご飯を出してくれ、何品かのおかずを作ってくださり、育ち盛りの不真面目なオレに毎回ご馳走してくれた。

そんな頃に、当時 京都市立芸大に通ってらっしゃった姉弟子を紹介された。
とってもチャーミングな方ではあったが、クールで どこか尖ってる感じの印象で、腕は、それはもう当時でも誰もが絶賛するほどの人だった。

しかし、当時のオレは、先生たちにも内緒だったが、家出をして先輩宅に長い間 居候してて、学校も先輩に怒られながらイヤイヤ行ったりし、夜はサパーでバイト。
姉弟子のような、尖った感じの女性も多くいた(当時はバブル時代だったので)ので、そんなに抵抗はなかったし、もっと言えば、この姉弟子のように颯爽と登場してパリッとキメてみたりすることに憧れた(笑)。

で、どこでどういう経緯から そうなったのが覚えてないが、それから何度か姉弟子と河原町でお茶したりメシをご馳走になる機会が何度かあった。

年齢の近い姉弟子は、オレがヤンチャしていることもスグに見抜いたが、それを咎める訳でもなく、毎回長い時間 色んな話をしてくれた。
クールな容姿から、かなりパンチのあるグサグサ刺さる鋭い言葉もあったが、オレはこの姉弟子の話が好きだった。
そして、そんな少々怖い姉弟子が「待ってるからね。頑張って」と言ってくれる言葉に喜び、この人の後輩になって、大学の敷地内をオラオラで歩く自分を想像していた(笑)。

が、今思えば、当時のオレは小手先のテクニックばかり上がり、心構えが足りなかった。
真面目さも全然なかった。
それが理由で、姉弟子が通った学校に行くこともなく、そして地元の音大も2週間で辞めた。
受験の2週間前に警察のご厄介になり、停学くらって丸坊主だった少年の行く末は、そんなモンだ。
そして、それから20数年、大事に育ててくださった2人の恩師に会うことも、姉弟子に会うこともなかったのでした。

 

 

それが、ひょんなことから姉弟子とコンタクトを取ることになった。
とある京都のホールのWEBを見た際、いきなり姉弟子の写真が載ってて。
なんでそうしたのか分からないが、ネットで調べると姉弟子のマネージメントがすぐに出てきたので、その事務所にメールを送った。

その後、とっても丁寧なお返事を貰い、先生の近況も知り、そしてSNSでも繋がった。
色々と面倒なことも多いSNSだが、こういう嬉しいSNSは大歓迎だ。
その後、お会いすることは無かったが、お互いの近況はよく分かる。
すると、1週間ほど前に姉弟子からメッセージが届き、「明日、銀座の王子ホールでコンサートなんだけど来ませんか?」といただいた。
普段なら「調整します」と返すお誘いだが、そこは「行きます、行きます!ぜひ行かせていただきます!」と(笑)、返事をし、それからすぐにムダ毛の手入れをした(嘘w)。

 

で、冒頭の姉弟子のコンサートである。
プレイを聴きながら、色んな想い出が頭の中を駆け巡ったり、曲に引き込まれまくったり、精神的には かなり忙しい時間を過ごした。
終演後、ロビーでオレを見つけた姉弟子は、とっても優しい顔で笑ってくれ、その後の打ち上げにも同行させてくれた。
約30年ぶりに会ったのだけど、相変わらずチャーミングで怖い人だった(笑)。
当時のクールさは無くなってたが、でも やはり怖いもんは怖い(爆笑)。
それから数日して、姉弟子から小笹先生の連絡先の入ったメールが届いた。「連絡しなさい」と。
ドキドキしながらメールし、そしてまた数日経って電話で小1時間ほど話した。
先生の口調も、電話の向こうの感じも全く変わってなくて、「先生、腹が減りました」と言えば、今でも冷凍ご飯をチンしてくれそうなくらい。

佐藤先生が100歳で亡くなられたことは、人から聞いて知っていたが、80歳過ぎてもオケで棒を振ってらっしゃった話、地元の小学校の校歌を90歳を過ぎて作曲された話など、驚くような話も沢山聞けたし、なぜオレが音楽を辞めたのか、そういうことも言葉足らずだったかもしれないが、伝えられたと思う。そして30年間の不義理を何度も詫びた。

 

これまで30年間ずっと、自分の人生の中で蓋をしてきたことだった。
BOSSに呼んで貰って 東京に出てきて、今でこそこの業界でメシを食ってはいるが、自分の過去を口に出したい場面も無かった訳ではない。
でも、結果として それを隠していたことは、ただ単にオレ自身が、自分の人生に蓋をした・・・不義理をしていたことを心苦しく思いながらも、放置していただけだったんだと思う。

 

姉弟子の演奏を聴きながら、実家に放置しっぱなしのKOROGI社のマリンバがあることを ふと思い出した。
次に作業場を移転することがあったら、もう少し広めの部屋で、マリンバと、自分がずっと弾いていたピアノを置きたいなと思った。

 

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16人と先生方とお父さんお母さんとオレのNコン2016

以前にも書いたが、《秋日傘》という素晴らしい作品がある。
作詞をされた康 珍化さんが、実際に東北の被災したある町の風景を見られ、それを詩にされ、その詩にBOSS(都志見 隆)が曲をつけられ、中西保志さんが歌ってらっしゃる作品で、1年ほど前にリリースされた。

この作品を、石巻市立荻浜中学校の全校生徒さん16名が歌いたいと言い、第83回NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2016)宮城県大会という公の場で混成6部合唱というスタイルで披露することになり、その編曲をやらせていただいた。

編曲を作業場でやっているときに熊本地震が起き、編曲を仕上げてすぐに熊本に向かった。
そんな、震災という哀しい出来事とは切っても切れない、オレにとっても深い思い出を持つ作品になった。

 

この作品を、実際に震災に遭った生徒さんたちが歌う・・・作品や世の中的には大きな意味を持つだろうが、しかし本当にこれで良いのかどうかを何度も自問自答しながら作品に関わらせて貰った。
「今年のNコン、この曲を歌うんだよ」と生徒さんが家に持ち帰ったとき、親御さんたちは どう感じられるのだろう?
いや、大人よりも、震災当時7歳〜9歳だった生徒さんの心には、どんな影響を及ぼすのだろう?
そういったことを考えると怖くなかったかと言えば嘘になる。

だからこそ、真摯に編曲をさせていただいた。
この作品を、東北の方々が歌ってくださることを、作家の先生方は本当に喜んでくださっていた。
この曲を聴いて、この歌を唄うことを、生徒さんたちは真っ直ぐな瞳と言葉で伝えてくれた。
いま思い出しても本当に苦しくて辛い1ヶ月半だったが、多くの人の期待や想いが、自分のポテンシャル以上のものを引き出してくれたような気がする。

 

 
編曲者として、8月16日からNコン当日まで、毎日 生徒さんに合唱の指導をさせていただいた。

1ヶ月ほど前に送られてきた合唱の動画を観たときには、「これはヤバいかもしれん・・・苦笑」と感じるくらい大変な状態だったのだが、さすがは中学生の柔軟で吸収力のある脳みそである。
オレが入って2日目には、ざっくりとだが形になってきた。
恐るべし中学生の集中力、である(笑)。

聞けば、早朝から駅伝の練習で全員が4kmを走り、そのほかにも夏休みの宿題や部活の練習、大会などもあり、そして習い事や塾に行く生徒さんもいるという。
1日の稼働時間で言えば、世のオトナの勤務時間よりも遥かに長い!
そんな中で彼らがオレと過ごす4時間余りを決して無駄にしないようにしようと、厳しく、そして楽しく感じて貰えるように指導した。

 

「本番は、練習の半分くらいしか出ないからな。だから もっともっと練習して、自分を自分で磨いていく努力をしないといけないよ」

・・・・・アーティストに言うセリフそのまんまを中学生に要求もした(苦笑)。
大人と何かを一緒につくっていくということ、プロと音楽を一緒にやるということ、そして何より、ステージ(舞台)に立って 観客に音楽で何かを伝えることの難しさを知るということ、
そんな厳しさも含めて”音楽を楽しい”と思って貰いたいと心底思った。

そんなオレの勝手な想いに彼らは応えてくれ、そして本当によく頑張りました。

 

しかし、本番には魔物がいる。

これは、プロだろうがアマチュアだろうが、舞台に立つ人間にだけ分かる感覚。
彼らや彼らを取り巻く大人たちとて例外ではないのです。

でも、本番が終わって、一人ひとりと握手をして、ホールの外で記念写真を撮ってるときの生徒さんの表情を見て、「彼らは心の底からやり切ったんだな」ということと、「ひとり一人に、今日の結果に思うところがあるんだな」ということが見て取れて、彼らと一緒に音楽をやった数日間が、より尊いもののように思えました。

 

荻中の16人の生徒さん、
みんなを引っ張ったリーダーのルキ、
本当によく頑張りました。

そして先生方、ご父兄の皆さん、
このような機会を与えていただいて、本当に有難うございました。

この歌が、これからも荻浜の海や山や空に響いていくことを、心から願っています。

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復興【もとの盛んな状態に返ること】

約7ヶ月ぶりの石巻・女川は、前回とまた違う街になっていた。
復興のスピードは、以前よりも進んでいるようにも見えるが、人間に必要な衣食住で言えば”住”や 街としての体・態を成すことに重きをおいている様な気がする。

何度も通った道のりの、脇に広がる住宅地には、もう殆ど津波でヤラれた痕を残した家は無いが、海沿いには高い高い壁が立ち、海の色も潮の流れや波も全く見え無い。
日和大橋のテッペンから見える風景は、それはそれは無機質で、その風景が無言で津波の恐ろしさを語っているようにも見える。

 

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女川の病院(現・医療センター)の眼前に広がる風景は、あの頃とは全く異なり、より無機質で、今では どのくらいの高さの津波がこの町を襲ったのかさえ分からなくなっている。
かさ上げされた新しい地面から病院の駐車場までは あまり高さを感じなくなっているし、病院の裏手には新しい駅や綺麗な商店街が並ぶ。

日和山公園から見る風景も、以前とは少し変わった。
真正面に見えていたお寺が全く見えなくなり、その風景を遮っているのは復興住宅である。
当時、真っ黒に焼け焦げていた町には青々と草や樹が茂り、のどかな雰囲気を醸し出してはいるが、その向こうには、先に書いたような高い高い壁が、広く大きく続いている。

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人を”生かす”ために、町を”活かす”ことを放棄し、そして雨風をしのげる場所を多く造り、津波よりも低い防波堤を何億円もかけて造る。
それが、今もっとも必要なことなのだろうが、そうやって人間が知恵を捻って絞り出した答えが、本当に正しいのかどうかは誰にも分からない。

いや、その答えが出るような日が、二度とこないことを心から願う。

 

あの震災から5年と5ヶ月、
この街で会う人たちの心の復興は、まだずっとずっと先のことのような気がする。

 

 

旅、のようなもの

VR作品の、台湾での初リリースは大盛況に終わった。
連日 長蛇の列ができて、2日目などは本来の終了時間よりも40分ほど前に”打ち止め”が出たくらい。ほかにも多くのブースが出ていたが、他のブースの関係者がその光景を写真におさめに来るくらい素晴らしい結果だったように思う。

そこで驚いたのは、日本語で言うところの「いいね!」を表す台湾語「好(ハオ)!」よりも、「キレ〜イ」とか「スゴ〜イ!」という声の多さ。
異国の人たちがVRを観て感嘆の声をあげ、その後にサムズ・アップしてニコニコしながら帰っていく様を見ながら、この作品に関わらせて貰ったことに心から感謝したのです。

 

台湾から帰って20日ほどはアレンジや仕込みの作業に没頭したが、そのあとスグに、また1週間強の旅に出た。
その旅では、自分の歩んできた40数年を数年単位で小刻みに振り返るような体験と感激を多く味わうことになりました。

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最初に降り立った熊本・・・震災以降2度目になるが、熊本城公園内に鎮座される、加藤清正公を祀った加藤神社さんが「震災があったからこそ、市中の状況を神様に見ていただくべき(宮司談)」ということで例年通り清正公祭をご斎行されることになり、参加させていただいたのだが、本当に<神事>というに相応しい、厳粛で感動的な神輿渡御だった。

今回で6回目の参加になるが、光栄にも睦の会長さんからご指名いただいて宮出しの華棒を担がせていただき、まるで地元の人のようにNHKのニュースにもドアップで映されていた(笑)。
マイクを通した宮司の声・言葉にグッと胸が締め付けられ、道中は まだ残る崩壊した建物を見たり涙を拭う沿道の方たちを見て、何度も涙が溢れそうになるのを我慢していたのだが、直会(なおらい)終わりで担ぎ手の打ち上げの折にさせていただいた挨拶で、ついに涙腺が崩壊した。
東北、そして九州と、震災の話題になると 今でも色んな光景が浮かんできて、感情がコントロール出来なくなる。
そして、自分の無力感でいっぱいになる。

 

 

熊本で3日半ほどを過ごし、前夜や前々夜のアルコールが汗になってダラダラと流れるのをハンカチで何度も拭いながら、次なる地・広島へ。

すでに情報解禁になったが、2年半ほど前から準備して様々な方面の方たちのご協力のもと ようやく完成したアルバム作品のプロデューサーとして、在広の媒体ご担当さんと連日の打ち合わせ。
出会った頃はお互い駆け出しで、ただただ「一緒にいることがオモロい」という感覚だけで遊んでいた制作ディレクターたちも、15年強という時間の中で多くの素晴らしい作品が評価され、立派なディレクターになってる。
とは言え、会えば昔のままの距離感だし、飲めば なんだかんだと仕事の話で盛り上がるしなのだが、その一言ひと言の重みや言葉の的確さは、大いに刺激を受けた。

 

3日間強で述べ11番組7人のディレクター、5名の媒体担当と会い、そしてそのほかにも8件の打ち合わせをした。よくもまぁ こんなに多くの広島人と会ったもんである(笑)。

しかし不思議なモノで、30数年振りに会う人も、十数年ぶりに会う人も、そして5年ぶりくらいに会う人も1年ぶりの人も、あの頃と何も変わらない笑顔で手を挙げてくれる。
お互いにジジイ・ババアに片足を突っ込んだ年齢・見た目ではあっても、人と人の触れ合う温度は そうそう変わるもんじゃないのだろう。
そう感じられたことが本当に嬉しかった。

 

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最後の2夜は、墓参りも兼ねて地元に帰った。
2日間もゆっくり滞在するのは いつぐらいぶりだろうと考えてみたが、どうやら相当前のことらしく、全く思い出せない(苦笑)。

昨年に移植手術をした母親が、まだ本調子ではないだろうと思い、1泊は街なか(・・・といっても実家から車で10分ほどのところなのだが)のホテルに泊まることにしたのだが、あいにくスポーツの大きな大会が開催されてたようで どこも空きがなく、結局ウィークリー・マンションと謳ったところに泊まることになった。

カフェを併設するフロントで受付を済ませ、鍵を貰うと「では、ご案内します。ここから少し離れているので」と言われ、オーナーっぽいナリの人の車を付いていくと、見覚えのある細い道をどんどん進んで行く。
「あれ?このまま行ったら この先は確かラブホテルで、そこで行き止まりじゃなかったっけ?」と思いながらついて行くと、案内された先は、まんまと その<元・ラブホテル>(笑)。
17〜8の頃、10枚集めると1泊タダになるサービス券を集めていた、まさにソコだった(爆笑)。
翌日は実家に泊まり、母親のトンチンカンな愚痴をプリタツに聞かされw、そしてまた夜は同級生や後輩と飲み、昔 通学路だった、都内に比べたら かなり薄暗い道を歩いて帰る。
たった2日ほどで、40数年前から30年くらい前までの十数年間を イッキに駆け抜けた気がした。

 

しかし こうして会う人 会う人すべてが、自分にとって財産なのだと心から思う。
16の時に家出をして、それから約2年ほど衣食住すべての面倒をみてくれてた先輩と会った瞬間に向けてくれた笑顔にはヤラれた。
子供やダンナがいるにも関わらず、夜22時にオレが帰ってきてると知ってチャリで駆けつけてくれた同級生の喜んでくれる表情にもヤラれてしまった。
「んじゃ、また!」と言って別れれば、自分の帰る場所は あの元・ラブホテル、エントランスを入った途端にいきなり澱んだ空気に変わるアノ場所に帰るのもイヤで、このまま この時間がずっと続けばいいのにと願った(笑)。

トンチンカンな愚痴を永遠に息子に聞かせる天然な母親に産んで貰い、ある程度の自我が目覚めた頃から あの通学路を何千回も往復し、そして家を出て先輩の家に転がり込んでからオトナの世界を知り、地元を離れて また多くの出会いと別れを繰り返し、そのうちの たった1回の衝撃的な出会いを機に東京に出てきて 多くの業界の人たちと知り合い、キャンペーンで行った熊本で劇的な出会いをして そこからまた沢山の人と知り合い、・・・・・そんなことを本当に沢山思い出せた日々だった。

 

まだまだ続くね。いや、続けていかなければならないと思うし、続けていきたいと思う。
生きるって、生きていきながら誰かとまた出逢っていくって、めっちゃ刺激的な旅みたいなもんだ、と、こうして つい2週間ほど前のことを振り返っても、強くそう思うのです。

 

 

季節外れの花見

ここ数年、お花見という酒宴に全く縁が無いなぁ〜と、ふとそんなことを思った。

もちろん酒宴は嫌いじゃないし、お誘いがなかったということも無いのだが、満開の時期に都内にいないということが、ここ何年か続いていただけだったのだ。
当然、旅先では満開の桜を眺めたし、桜の花が咲き誇る様を眺められるお店で食事をしたことは何度かある。しかし「花見をした」イコール”皆でワイワイと飲んだ”であるからw、そう言い切れるようなものは何一つ無く、来年こそは満開の桜の下で 缶ビールくらいは飲んでみたいものだと熱望しているのです(笑)。

 

さて、あまりブログ上で作品の話を書くことは無いのですが、今日は少しだけ そんな話を。

3年ほど前に、代理店の方から連絡をいただき、深夜に とある都内の制作会社さんで打ち合わせがありました。事前に内容を全く聞いてなかったのですが、席に着くなり代理店さんから「コレを見てください」と手渡されたのは、アイマスクを大きくしたような、昔の水中メガネのようなゴーグル。

それを着けると、いきなり動画が始まりました。
360度、どこを見ても目の前のものが手で掴めそうなリアルさで、思わず大きな声が出てしまったくらい驚いたのです。

全てを見終わったとき、なんだかドッと疲れました。現実と仮想の区別が付かず、いきなり見せられたものに対する衝撃だけが残ったような感覚です。
すると代理店の方が「我々は、これからコレを作っていこうと思っています。おそらく数年後には話題になるコンテンツになっています」と。そして「我々とコレを一緒にやりませんか?」と言われ、またまた驚いたのでした。

が、お話を聞いている中で「なんらかの事情で旅行に行けない人や海外の人にも実際に現物を見たのと同じような映像を観て貰える」と仰ったのを聞いて、「ぜひ、やらせてください!」とお返事をしたのです。

 

どうせならお世話になった方々に一番に伝えたいと思い、翌年も翌々年も制作会社の方と全国を回り撮影に立ち会ってきました。
撮影されてるのを傍で見ながら、「こういうシーンは こういう音かなぁ」とか、「この風景はピアノで艶っぽく支えたいなぁ」などと、訪れた先で様々な回想を巡らせていたのですが、”Youtubeが360度対応”というニュースがリリースされた辺りから、周りがザワザワし始め、そして 最初にお話を聞いてから2年ほどで<VR(360度動画)>というコンテンツの普及と市場が あれよあれよと言う間に確立されていくのを、驚きながら見ていたのです。

もう今ではアチコチで見かけるようになったVRですが、私が関わらせていただいた作品(コンテンツ)がようやく発表され、その世界水準クオリティでの導入は全国の行政で初ということもあって、発表のあった昨日以降、かなりなスピードで色んなニュースが届き、喜んでいます。

作曲をしてくれた花*花のこじまいづみさんや、MIXをしてくださったformの森元さん、ストリングスを担当してくれた伊藤ハルトシさん・吉田篤貴さんのお陰で、素晴らしい作品になったと思ってますし、ナレーションを担当された声優の近藤 隆さんの声もドンピシャで、こんな素敵なコンテンツに編曲・RECディレクション・プレイヤーとして参加させて貰えたことをとても感謝しています。

無料のアプリをダウンロードすれば、スマートフォン・ユーザーの方ならご覧いただけるので、ぜひこの世界観を味わってみてください。
来年は・・・というか、これからはいつでも、缶ビールとVRビューアさえあれば花見が出来るなぁと、そんなことを企んでいます(笑)。

VR CRUISE

 

久しぶりにアルバムリリースのことで 渋谷にあるディストリビューター(流通会社)さんに某Pと伺いました。
なかなか元気のない音楽業界の中で、その会社は とっても活気があり、誰一人として”ダラダラ歩いてる”なんてことは無く、とても空気の良い会社で驚きました。

まだまだ こんな元気のある会社があるんだなぁと思い、「よし、また しっかり頑張ってみよう」と思ったのでした。
うん、まだまだヤれることイッパイあるなと。

そんな嬉しい出来事もありつつ、明日からVRコンテンツのリリースで制作関係者として海外で頑張ってきます!

がまだします!

家族同然の付き合いをさせて貰ってる心友と電話で話してた折、「震災で損壊した家から引っ越すことにしたが手が全然足り無い」と聞いた。
スケジュール帳を見る・・・・・よし、行けるかも!と、急遽 飛行機や宿泊の段取りをし、5日間を熊本で過ごしてきた。

翌日の早朝から作業がスタートしたのだけれど、地震で損壊した家屋は 雨のたびにバケツをひっくり返したような雨漏りをしていたらしく、床も畳もボロボロで 埃だらけ、おまけにダニまで大量発生していたものだから、すぐに両腕は赤い小さな斑点が数え切れ無いくらいできて痒みが止まらなくなった。
その上、初日から最終日までほぼ30度超えの毎日で、あまりの暑さに防塵マスクをしていると呼吸が苦しくて倒れそうになるくらい。汗は滝のように流れるし、耳元では蚊の羽音が絶えず鳴っている。
そして大量に積み込んだトラックを運転して産廃処理場まで何往復もしている間に日焼けで腕は真っ赤。連日12時間以上ずっと動きっぱなし、疲労感プリタツで宿舎に帰り、また朝になると現場に出かける、そんな毎日が帰京するまでずっと続いた。

作業開始から3日目の夕方、心友は ようやく新居でガスが使えるようになり、張り詰めていた緊張が少しだけ解れた。それまで毎日、ガスすらも使えない自宅で水風呂で体を洗う毎日だったことから考えると、大きな大きな進歩。
3LDKの一軒家から8帖のワンルームに引っ越すことにはなったけれど、それでもベッドで寝れて温かいシャワーも使える毎日が、どれだけ精神衛生上 良いことかというのは、現地を見ていない人にもご理解いただけると思う。
そんな状況の中でも 毎日 笑い続け、自分のことより他人のことを優先して取り組んでいたことに 心から尊敬の念を持った。

彼だけでなく、今回 熊本で会った多くの人たちから感じた熱量や前向きな気持ちからも、本当に多くのものを学ばせて貰いました。
ありがとう。

 

 

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帰京する数時間前、現在は立ち入り禁止区域に指定されている熊本城周辺に 特別に入らせていただいた。
テレビの画面で見てはいたが、実際に見ると、あの雄壮だった熊本城の天守閣や櫓・城壁が無残なまでに崩れ、しかし その状態にあっても必死に建っているように見えて切なくなった。
ある時期は、数ヶ月間 毎日のように行っていた熊本城や清正公を祀った加藤神社の思い出や 何もなかった頃の風景が浮かんできて、凝視できないほどだった。

突き抜けるような青い青い空と、損壊した熊本城の姿が、今でも目に焼き付いています。

 

 

今回の震災で大きな被害を受けた熊本、そして東日本大震災で甚大な被害を受けた女川町や石巻市など、これからも自分に出来ることで 長く関わり続けていきたいと思っています。

 

 

Seeds

年に何度か、ウチのポストには 花の種の入った袋が投函される。
最初のうちは「?」と不思議に思っていたのだが、ある日 斜め向かいに住むオッちゃんが「植えた?」と聞いてきたので そのオッちゃんが入れてくれてると分かり、時期をみてプランターに植えるようにしている。

このオッちゃん、下町の長屋の立ち並ぶ通りを 毎日必ず掃き掃除されている。
夏の暑い時に水を撒いたり、汚れや落ち葉に気づいたときはオレも玄関先を掃除するが、オッちゃんは雨の日以外ほぼ1年を通して、長屋の通りを綺麗に掃除しているのだから頭が下がる。
「物騒な世の中だからね、通りが汚いと悪いことも起きやすいしね」と、30メートルほどの通りを小一時間ほどかけて綺麗にするオッちゃんの箒の音が、いつもリズミカルに鳴っている。

 

さて、世間はGWだったが、その間ずっと作業場に引きこもって作業に没頭していた。
煙草を買いにタバコ屋まで行くか、コンビニに行く以外は、全くと言っていいほど外の空気を吸わず、ただひたすらPCの画面と鍵盤を前にして、なんとか良いフレーズを捻り出してやろうとモガいていた。

6月中旬すぎには おそらくプレス発表があるだろうが、国内でも最先端な技術を使った映像作品の音を作るというミッションをいただき、某アーティストさんが作った原型に 情感と艶を加えて形にしていく作業。
あと2日ほどすれば、レコーディング・スタジオでの作業になる。

そんなプログラムの作業に明け暮れていたGW中、人と会ったり話したりしたのは2人だけ(笑)。
煙草が切れたので買いに行こうと外に出ると、いつもの箒の音。
「この前も 種、入れてくれてましたね。植えましたよ。でも、なんかいつも頂いてばかりで申し訳ないなぁ」
と言うと
「ウチも貰ってくるんだよ。だから気にしなくていいよ」
と。

なんでも、オッちゃんのご家族が墓参りに行くと、毎回お寺で花の種をくれるんだそうだ。
”墓参りにいくと花の種をくれる”、なんて素敵なお寺さんだろうと思う。
そして その貰った種を、通りに建つ十数軒の中から 何故かウチのポストに投函するオッちゃん、なんだか不思議な流れ(笑)。

 
タバコ屋に行けば行ったで、「ノベルティも今からは無くなっていく時勢だし、煙草を買う人が少なくなっちゃってさぁ〜」と嘆くタバコ屋の親父の話を「へぇ〜、そうなんだ」と聞き役に徹して、さぁまた帰ったら頑張ろうと来た道を戻る。

ウチの前の通りでは、出たときと同じように、オッちゃんが 丁寧に通りを掃いている。

 

ここに越してきて もう5年ほどになるが、下町の穏やかな風景に触れながら、日々 あ〜でもない・こ〜でもないと、また音を鳴らしている。

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