ザギンでユーミン

つい昨日のことなのだが、6年ぶりくらいに、LIVEにキーボーディストとして出演させていただいた。

1年ほど前に、ペニー当山さんや近藤ナツコさんというベテラン女性シンガーさんたちと月島の居酒屋で夕方から飲む機会があり、その席で何の話からか (みんな酔っ払ってて あまり記憶が確かではないw)”松任谷由実さんの作品の世界観を感じて貰えるようなLIVEをやろう” ということになり、銀座のRoad to Starというハコを借りてやることになった。

松任谷由実さん、荒井由美さんが70年代から80年代後期にかけて書かれた詞曲やアレンジの素晴らしさは誰しも知っていることだが、それを4リズムにアレンジし直して、いかに世界観をそのアレンジに投影できるか・・・ということの難しさに対しての不安はあったが、大先輩たちとご一緒させていただけることや、もう一度4リズムのアンサンブルを勉強したいとずっと思っていたので、自分自身にとっても、とても意味のあるチャレンジだと思ったのです。

 

《Ride on the Time Machine 第一夜 ~ザギンでユーミン~》というタイトルのライヴのバンドメンバー、
ドラマーは上野義雄さん。
前回のブログに書いた[a day]というコンピレーション・アルバムはラジオ仕立てになってたのだけど、そのアルバム内で使用するジングルを作っていただいた(ナヴィゲーターは金子奈緒さん)のが最初だから、初めて会ってから15年が経つ。
BOSSの同級生で、オレ自身は義雄さんと一緒にステージに立つのは初めて。
「この前、隆夫(BOSS)と飲んだんだよ。yossyと一緒にやるって言ったら”アイツ、ちゃんとヤってんの?”って言ってたよ」と(苦笑)。
ちゃんとヤってます(笑)。

そして、その義雄さんが「ベースは彼が合うんじゃないかなぁと思って」と推挙されたのがベーシストの田口英穂さん。
Jニーズから演歌の大御所まで、今も様々なところで活躍されてる大先輩で、顔合わせと称してメンバーで渋谷に集まり飲んだときから、とてもよくしてもらってる。

「ギターはイキのいい若手がいいね」と誰かが言ったことを機に、近藤ナツコさんが引っ張ってきたのが福田正人くん。
師匠の元でしっかりと技術を磨いてきたってのがよく分かる、正確で丁寧なプレイヤー。
30歳くらいかなぁ・・・栃木から東京に出てきてまだ3年という、オレのスタートと少し重なる感じもあって、よく二人で騒いでます(笑)。

そしてヴォーカルが、ペニー当山さんと近藤ナツコさんという実力派のお二人のツインヴォーカル。

 

そんな素敵なメンバーの方々と一緒に駆け抜けた2時間、19曲。

Sold Outだった満員の会場で、最初はステージも客席も緊張感が凄かったのだけど、1曲、2曲終わるころには とっても柔らかな時間が流れ始めてね、本篇の最後の頃になると色んな想い出が溢れてこられたのか、号泣される方や涙ぐまれる方も沢山いらっしゃって、本当に良いライヴだったなぁと、一夜明けてジワジワきてるのです。

途中、会場に観に来られてたm.c.A・Tさんを無理矢理ステージで紹介し、そのまま『真夏の夜の夢』を共演、客席の盛り上がりも凄かったどころの騒ぎじゃなかったのです。
本当に素晴らしい1日を過ごさせて貰いました。

 

ご来場いただいた大変に多くのお客様、そして音周りでお世話になったスタックコーポレイションのみなさま、そしてRoad to Starのスタッフのみなさま、本当にありがとうございました。
これから またメンバーで第二夜の話し合いをして しっかりと練っていき、もっともっと楽しんでいただけるステージになるよう頑張ります。

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そして、一夜明けて今日、
熊本地震から1年が過ぎた。
深い縁のある人たちが住む熊本の地で、阿蘇が噴火するということはあっても、まさかあのような大きな地震が起こるなんて予想もしていなかった。
益城町では、未だ何千人もの方が仮設住宅で暮らしてらっしゃると聞く。
1日も早く、元の生活に近い暮らしができるようにと祈ってます。

 

 

 

 

あのときの時間はつづく

15年前の2002年に [a day]というコンピレーション・アルバムを作った。
シリーズ化したそのアルバムは、2002年から2005年までの間に4枚を世に出した。
まだ 駆け出しのひよっ子プロデューサーだったオレが、東京という大都会で多くのアーティストと知り合い、そして「この曲が、このアーティストの歌が、もっともっと多くの人の耳に届いて欲しい」という想いを抱いて作ったアルバム。

 

当時まだ流通の選択肢として不安な面も無くはなかったインディーズ流通で、特別な宣伝などもせず、BOSSや部長と一緒に「どうやったらパワープレイが獲れるか。どうやったら試聴機に入るか。」に特化したアイデアを練りに練った。

BOSSの理解と後押しもあって、1枚目から”プロモーション”という名目で予算を出していただき、北は北海道、南は九州までの放送局やディーラーをオレ一人で行脚。
放送局では受付で「すいません、編成の偉い方を紹介してください」と、今じゃ考えられない飛び込み営業をし(笑)、ディーラーの軒先では店長やインディーズ担当の方に猛アプローチして、その場で註文書に発注数を書き込んで貰うというドブ板営業。

その結果、各地で特番を組んでいただいたり、生放送や収録で多くの番組にゲスト出演させていただいたり、各地のCDショップではメジャーの作品を差し置いて平積みにしていただいたりと、本当に多くの方にお世話になった。

 

そのアルバムと連動したオムニバス・ライヴも同時にスタートし、当初120人キャパの会場に50人足らずしか入らなかった[LIVE a day]という企画ライヴも、2006年には2千500人規模の動員をするまでに成長した。

今では当たり前のように何人かのシンガーソングライターがステージに立って歌って、最後に全員登場のセッション曲を披露するというスタイルの走りだったように思う。
その括りで全国ツアーにも飛び出し、多くのお客さんに聴いていただいたことに、本当に感謝している。

 

 

その1枚目をリリースするときに訪れた富山県。
FM富山でプロデューサーをされてたK角さんに、地元では有名なレコードショップチェーンのFヤさんをご紹介いただいた。
統括のバイヤーだったM山さんをはじめ、各店の店長とは非常に懇意にさせていただいたのだが、先月、その中の二口店 店長(当時)だったH川くんが久しぶりに上京するということで、当時の大手レコードメイカー北陸担当だった方々と渋谷に集合した。

S社やV社、T社、a社など、当時の名古屋営業所に居て北陸担当だった人たちの殆どが現在では本社勤務で重要なポストに就いてる。
全国のCD販売シェア1%ほどのエリアで、いかにパッケージを売っていくか、いかに店頭に積んでもらうかということを常に考え、動いてきた人たちだからこそ、今のようなパッケージが売れない時代に必要なノウハウを持ってると言える。

オレ自身は、北陸担当の方々と直接的に仕事での縁は無かったのだが、当時もだったが、今でも北陸担当が集まるというと、必ず声をかけて貰ってることが有り難く、そして不思議だ(笑)。

 

”全然かわらないねぇ〜”
誰かが登場するたびに、そんな言葉で盛り上がる。

お互いにトシは取ってるし、貫禄も出てきてるしなのだが、昔話よりも「今の時代にどう売っていくか」という話で盛り上がる仕事へのアツさは変わらない。
健康の話や、親族の話など、我々世代が考えていかなければならない話もあったが、やはり皆どこにいても音楽を愛し、そして音楽業界で まだまだ何か出来ることがあると信じて取り組んでいる姿は、普段 作業場に閉じこもってゴソゴソ作業しているオレにとっては、非常に刺激になる。

次回は、当時T社のプロモーターだったK頭くんなどとも一緒に集まれるといいなぁ〜なんて話をして明るく解散した。

 

Fヤは2016年4月12日に負債額10億円で特別清算の開始決定を受け、8月14日に100年の歴史に幕を閉じた。

100年の間に、オレが直接お世話になった作品は6枚ほどだったが、ツアーの即売などでは1回に250枚以上が売れるということもザラで、何度も一緒に祝杯をあげた方々が居た場所。

その思い出は しっかりと心の奥におさめて、また前を向いて進んでいこうと思ってるのです。

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風化

6年目の3.11が終わった。
1週間ほど前からキー局のTVなどでは震災関連のニュースが流れていたが、翌々日になると不思議なくらいピタリと報じなくなり、代わりに大阪の小学校理事長の映像やコメントが毎日のように流れる。
国会では、その小学校の土地取得に関して国会議員も絡んだ不正があったのではないかという野党の追及や質問の映像ばかり(野党の皆さん、おたくらが与党の時にはいろんなことやってましたよね?)。

お隣の国の大統領罷免や、はたまた そのお隣の国のロイヤルファミリーが暗殺されたニュースなどを報じるのは仕方ないとして、もっと伝えるべきニュースはあるような気がする。

 

昨年、”震災から5年目”として、何か節目でもあるかのようにワサワサと なんでもかんでもニュースにしていたが、オレ的に言えば この<6年目>の方が大きな節目に感じてる。
震災のすぐあとに小学校に入学した子たちが卒業、中学校に入学した子らは高校を卒業した。

震災後に女川中学校(元・女川第一中学校)に入学した当時の新一年生と共に作らせて貰った『空(おもてなし武将隊JAPAN, 作詞:Satomiさん、作曲:都志見 隆)』という作品がリリースされてから5年という月日が経ち、その曲を一緒に歌ってくれた彼らは この春に晴れて高校を卒業した。
進学した者、就職した者など様々だが、彼らがまた一つオトナへの社会の階段を昇ったのは間違いない。
統合されて女川中学校という名になった学校の、第1号卒業生となった彼らのうちの一人が、FBにこんな投稿をしていた。

「東日本大震災から6年。この6年はとても早かったように感じています。
小学6年生のときに震災にあい、そこから6年、中学高校を卒業することが
できました。
なにもなくなってしまった私たちに支援してくださった方々、津波対策の活動
をテレビやラジオ、新聞、インターネットなどで広めてくださった方々に本当に
感謝しています。
最近では震災の風化という言葉もよく聞くようになってきました。その風化を
防ぎ、また同じような被害を出さないためにも、私たちにはまだまだやらなけれ
ばいけないことがあると考えています。そのため、高校を卒業し社会人や大学生
となる私たちはこれからも津波対策の活動を続けていきたいと思います。」

 

日本のオトナたちよ、たかだか17歳だか18歳の若者に こんなことを言わせてしまう世の中って どうなんだろうか。
そりゃ誰もが 今 自分の目の前の”生きること”に精一杯なのは分かる、分かるんだけど 「ナニか違うくないか?」

日本国民の防災意識ってのは、震災を経験した彼らだけが、広まるように常に動いていかねばならないことなのだろうか。
今すぐ命に関わることではないクソしょうもないニュースを報じてる関係者のうちの何%くらいが、震災当時から今に至るまでの現地の人の営みをご存知なのだろうか。

 

3.11は、何かメモリアル的な<イベント>なのではない。
あの日 14時46分に起きた自然の脅威が、常に誰しもの隣り合わせにいることを忘れず、そして亡くなられた多くの方々のご冥福を祈るとともに、「今も現地で生きていってる人」の気持ちを汲み取って「自分にはナニができるか?自分がその立場だったらどうなのか」を考え、改めてまた1年の防災意識の指針とすべき日なのではないだろうか。

 

”生きること”と”生きてゆくこと”は 全く別物だ。
震災をご経験された多くの人から オレはそれを教えられた。

「大きな地震が起きたら、津波警報が出たら、まず高台に逃げなさい!」
・・・この言葉を、今もずっと伝え続けている方々の想いを、これからもずっと汲める人間でありたいと思う。

 

『風化』という言葉を報じている側が、その”風化”の先陣を切っている気がしてならない。

 

四半世紀

友人の作曲家・Shifoの作品に『25年ぶりの手紙』という名曲がある。
歌詞自体が実際に25年ぶりにクーペさんという方の娘さんから届いた手紙に対する返信で、非常に心のこもったものだから、心の最奥をグッと掴まれるのだが、その詩をしっかりと引き立たせるShifoのソングライティングが光る作品。
15年ほど前に この作品が世に出ると、様々な場所で大きな反響がおき、そしてShifoやクーペさんを取り巻く環境でも色んな現象もあったと聞いている。

 

25年・・・四半世紀というと、とっても長い時間ではあるのだけど、何か人とひとが再会したり、また何かが始まりそうな予感があったりみたいな不思議なサイクルのようなモノがあるんだろうな。
つい最近のBOSSのブログにも、25年前に書いた作品の関係者の方々と再会し云々・・・なことが綴られていたし。

 

実はオレも、数日ほど前に25年ぶりの再会をしてきた。

遡ること29年、バブル絶頂期の頃。
その当時のオレは、あの時代に一世を風靡したディスコ(死語だな、もうw)で働いていた。
DJ見習いとして、今じゃありえないが「無休・無給」でレギュラーDJを目指してた同列の若者が13人ほどいて、オレもその中に。

ボディ・コンシャスの派手に着飾った女性たちや、大きめのダブルのスーツに身を包んだ男性が、キラキラと光る店内で遊んでいるのを横目に見ながら、昼の1時から朝方5時くらいまでDJブースの外に齧り付き、朝方のコンビニでバイトをして数時間仮眠したらジーンズ屋のバイトに行く・・・という生活が半年ほど続いたのだが、13人の見習いの真ん中くらいにいたオレだけが、運良くレギュラーに引き揚げられ、その後 3年半ほど、イヤというほど曲を聴き、そしてプレイさせて貰った。

その時代にディスコで遊んでいた方たちも40代後半から50代になり、時間にも生活にも余裕が出てくる年齢になったのだろう、先日 広島で、当時のスタッフをはじめ西日本地区の取締役などもほぼ全員集まる『MAHARAJA SPARKLING NIGHT』という、現場に行って驚いたくらいド派手なイベントが開催され、オレはDJとしてプレイさせて貰ってきた。

 

25年ぶりに再会した皆さん、とっても良い年齢の重ね方をされててね。
そして、今をしっかりと生きてらっしゃるなぁと。

そのお一人おひとりに色んなことがあったのだろうけど、ミラーボールやムーヴィング照明が煌めく空間では、当時の若者に戻ってるような気がした。

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ここからまた四半世紀になると、もう生きてる人のほうが少なくなってるだろうから(笑) こんな機会は二度とないと思うけど、自分の25年前を振り返らせてくれた貴重な1日に感謝してるのです。

また今日から、自分のフィールドで、コツコツと一つずつ積み上げていこうと思ってます。

 

 

セピア色の時代

この年齢になってくると、ガキの頃に遊んだりしてた仲間の消息や現在の様子が、ふとした時に気になったりする。
まだ良いも悪いもハッキリと理解できてなくて、色んなオトナに迷惑もかなりかけたのだろうが、そんな年齢や時代だったからこそ想い出も深いものがあるんだろうな。

一番多感な時期を過ごしたのは、映画『この世界の片隅で』の舞台となった旧澤原邸と同じ地区。
あの坂道を転がるボールを追っかけて走ってた半ズボンの少年が、いつしか学ラン着て自転車で駆け下りるようになり、そのうちスクーターや単車で夜中に走るようになる。

家を出て先輩の家に転がり込み、夜はサパーで働いて 昼くらいにバイクで学校に行くという生活が2年ほどあったのだが、そのとっても世話になった先輩の半世紀のお祝いが地元で開催されるというので、機材を持って演者として参加させて貰ってきた。

 

300人を超える人たちが集まった会場で何十年ぶりかに会う同級生や後輩の、その殆どが建築業界で独立して社長や親方として頑張ってるのを見て、刺激を通り越して嬉しさで一杯になった。
オレが地元を離れてもう30年近く経つが、彼らが現場で下積みをして積み上げてきたもののボリュームは相当なものがあったのだろうと思う。

一緒にサウナに入り、酒を飲み、そして大いに笑った。
翌日も後輩の焼き鳥屋に集合して飲み明かした。

一人ツブれ、二人帰り、そしてまた一人ツブれ・・・・・で、気づくと外は陽が昇ってたのだが(笑)、「んじゃ、また!」が 今度は そう遠くない再会になる気がして、晴れ晴れとした気持ちでホテルまで歩いて帰った。

 

そんな素敵な2日間、
飲み始めよりも若干 人数は減ってるけど(笑)、先輩・同級生・後輩で並んで唯一撮ったスナップがコレ。

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こうして また肩を並べて笑いあえるように頑張ろう、ここ最近は彼らのこの日の笑顔が、オレのモチベーションになっている。

 

 

恭賀新年

明けましておめでとうございます!
今年もどうかよろしくお願いいたします。

 

例年通り、大晦日の午後7時以降から3ケ日は、飲んで食って笑って過ごしていたのですが、その暴飲暴食が原因で3日に体調を少々崩してしまい、あらかじめ用意していた日本酒が少しだけ残ってしまったことだけが心残りなのですが (苦笑)、正月中に少しだけ増えてしまった体重を元に戻しつつ、今日からまた元気に1年を過ごしていこうと意気込んでいます。

 

今年はどんな1年になるだろう?、今年はこんなことをやりたいな、等 早速いろいろと考えてますが、まずは目の前のことから一つずつ誠実に、丁寧に進めていこうと思います。

どうか本年もよろしくお願いたします。

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振り返らずに、忘れよう

1年が経つのが本当に早い。
とはいえ、誰しも同じように時間は過ぎていっているのは分かってるし、別段に生き急いでる訳でもないのだけれど、時間の体感度が ここ数年は格段に早くなってるように感じる。
それを”トシをとったから”と感じるか、”充実”と捉えるかは人それぞれだ。
ヤり足りなかったこと、反省点など挙げるとキリがないが、こうして健康で、そして指を折って数えても余るほどの作品を世に出させて貰えたことは、”充実”以外のなにものでもないと思う。

 

毎年この時期になって、往く年の残り日数を数えるようになると、なぜか少しだけブルーになる。
自分は今年ちゃんとやれたか、出会ったり作品を聴いてもらった人たちに喜んでもらえたか、そして来年の今頃も仕事はあるのか(苦笑)、など。
この仕事をするようになって、ずっとそんなことばかり考えてるような気がする。

そんな理由もあって、この時期にBlogを書くのは本当に億劫だ。
面倒くさいというのではなく、気がのらない。
「ポジティヴではない自分を世界中にさらけ出してしまうということが恥ずかしい」と感じるほどセンシティヴな性格ではないが、でも少しくらいはカッコをつけたい(笑)。

 

 
さてさて、そんなことをウダウダうじうじと考えてる間に、今年ももう残り3日ほどになった。
12月の初旬に「あ、ブログを書かねば・・・」と思ってたはずなのだが、いつの間にかもう20日近く経ってしまってる。
広島から新幹線で都内へ戻る4時間弱は とても長く感じるが、ドキドキしながらタイトなスケジュールの作品を進めてたり『忘年会』という言い訳を肴に飲み歩いていた20日間は あっという間に過ぎる(苦笑)。
もっと言えば、カープの勝敗に酔ったり憂いたりしていた2016年の2/3は遥か昔のことのようにさえ感じるのだ。

だから、ちょっとだけブルーになる。
「オレ、ちょっとボケが入ってきてない?」 と(爆笑)。

 

今年1年も色んなことがあった。
去年よりは少しだけ頑張ったかな、とか振り返りたいが、思い出そうとしてみると本当に色んなことがあり過ぎて、振り返るのをヤメた(苦笑)。
そう、本当に色んなことがあった。

有頂天になりそうなくらい嬉しいことや良いことも沢山あったが、悲しいことや切ないこと、己の無力さを突きつけられるようなこともあった。
その一つ一つの出来事にあった感情は、1年という時間を過ごしていく間に膨大な量になっていて、振り返るとまた歩き出すのが大変になりそうだなぁ なんて思う。
だから、今年はもう己の過ごした1年を振り返る作業はしないでおこうと思うのだ。

 

 

今夜は、このあと19時から毎年恒例の<ミュージシャン忘年会>が開催される。
この業界の人なら誰でも名前を知ってる大ベテランから、まだ世に名前が出る前の若手まで、多くの音楽関係者が集まり(昨年は200人超)、貸切られたお店で ただひたすらに飲む(笑)。
この<ミュージシャン忘年会>が終わると、オレの2016年も仕事納めになる。

”今年を忘れる会”、・・・・・忘年会ってホントいい言葉だね。
今年あった色んなことは、もう振り返らずに忘れようと思う。

 

新しく迎える次の1年に対する抱負も ずっと変わらない。
真摯に音楽や作品と向き合うこと、そして常に自分の作品に厳しくあること。
これはBOSSから教えられたこと。

そして、オレが東京に出てきたときから 17年間ずっと思ってることを、また来年もカタチにしていこうと思う。

 

BOSSに教えられたこと2つ、そして自分の信念1つ、
この3つだけをギュッと握ってれば、また来年も なんか頑張れそうな気がする。

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無駄な経験など何ひとつない(と思ってます40代)

カープに一喜一憂する日々が終わり、また元の生活に戻った。
25年ぶりに味わう嬉しさや、大人になって初めて経験した”応援するチームが負ける”残念さなど、久しぶりに日本のプロ野球を大いに愉しんだシーズンだったように思う。

 

さて、また元の生活に戻れば戻ったで、この<プチ・引き篭もり生活>にも色んな出来事や出逢いがある。
PCと鍵盤の前に座ってタバコを燻らせてる間に、いつの間にか陽が沈んでいたりする日もあるが、そうかと思えば 午前中から夜まで「あぁ今日はほんまに仕事したわ!」と口にするくらいバタバタする日もなぜかある(笑)。

そんな日々の中で、時折 打ち合わせや会食で出かけるのだけれど、そこで この年齢になってまた出逢う人達の、味というか人間臭さが最近のマイブームだったりする。

 

 

我々の業界でのビジネス・・・いわゆる『音楽パッケージ販売』が売れなくなって もうかなりな時間が経過する。
”売れない”という話は どこに行っても聞くが、不思議なことに「こうしたら売れました」という話は殆ど聞かない。

じゃぁ売れる仕掛けにトライしてるかと周りを見渡すと、そういった取り組みも目立っては見えてこないのが現実で、スタジオで仕上げた原盤をメーカーさんに持ち込み、パッケージ化して流通させるというカタチは何一つ変わっていなかったりする。

と、言いながらも、じゃぁお前なにかヤってんの?と言われると、やってなかったし、試してみたいことがある訳でも無かったのだが、実はカープにかまけてマツダスタジアムに何度も足を運んだり、グッズを購入したりしてる際に「あれ?これってヤってみると面白いかもしれんな」というヒントを幾つか得たりして、手探りではあるものの、ちょっと頑張ってみようという気になってるのです。

 

そのトライの一環で、今日は亀有のとある町工場さんへ。
わりと自分的には知ってるつもりだったのだけど、話を伺ってると「へぇ〜!こんなことも出来る時代になったんですね!」と自分の無知さと 時代に置いてかれた感、そして感動で胸が一杯になる。
そして工場の社長さんの、サンプルを大事に扱う手に、キュンとするのです(笑)。
・・・前にも書いたと思うのだけど、『手フェチ』なもんで(笑)。

おそらく、今オレがトライしてることって、とっくの昔に誰かがトライしてて、コストなのか需要なのか分からないけど それで良い結果に繋がらなかったりしたから、今 誰もやってないのだと思うのだけど。
でも、<時代>とか<タイミング>とか きっとあると思うし、誰もやってないから自分もやらずに、世の中の端っこでグズグズ言ってるのは、全く性分に合わないのです。

 

「1,000円で1万枚売るのが難しい時代なら、5,000円で2千枚売れるモノを作ってみる」
くらいの思い切ったことをしてみるのも、面白いんじゃないかと思って。

最近 ”出逢う人”や ”出会うモノ・目に留まるモノ”が、そんなことを教えてくれるような気がする、
・・・・・のは、気のせいではないと思って頑張ってます(笑)。

 

 

 

登竜門

初めて降りる岩国錦帯橋空港の風景は新鮮だった。

知り合いから「いつも広島空港を使ってるの?不便でしょ?遠いし。岩国空港は便利だよ」と言われてたのをふと思い出して、航空券の予約をする際に[岩国]を選択した。

飛行機は少し小さめだったが、新しくて快適。
最近よく新しい機体に当たるのだが、以前のものに比べて、座り心地も良いし、よく眠れるような気がする。
1年ほど前に3台ほどまとめて購入したBOSEのノイズキャンセラー機能のついたヘッドフォンをすれば、ジェットの「ゴォ〜」という音も、泣いてる赤ちゃんの声も全く気にならない・・・というか、気にする前に眠ってしまっているのだが(笑)。。。

 

で、いよいよ念願の(?) 岩国空港に降り立った。
時刻は午後6時30分、ちょうどクライマックス・シリーズ第3戦が開催されていて、黒田投手が投げ始めてる頃だろう。
空港には赤いユニフォームを着た方々も結構いらっしゃった。

そんな方々や、スーツに身を包んだサラリーマンの方々と一緒に駅までバスで移動。
・・・で、ちょっと驚く。
シャトルバスのような専用バスを想像してたのだが、ごく普通の路線バス。
しかし、お陰で久しぶりに見る岩国の街の様相が少し楽しめたような気がする。

そして JR岩国駅から山陽本線に乗り換え。
ホームにある喫煙スペースに喜び、そしてホームに入ってきた車輌を見て驚く。
「え?昔のグリーンとオレンジの電車じゃないじゃん!?」

なかなか新しい、スタイリッシュな車輌でゴトンゴトンと広島へ。
なんかこういうのも悪くないなぁ〜と感じていたのだが、都内からの移動時間が3時間近くになると、さすがに飽きてきた(苦笑)。
真っ暗で、外の風景を見れないからというのもあるだろうけど、大きなスーツケースを持って移動するには、ちょっと厳しいのかなと。

 

 

さて、今回の広島は、<クライマックス・シリーズ第4戦を観戦する>ということのほかに、もう一つ重大なミッションがあった。

実は、とあるご縁から、橘右之吉さんの書かれた書をいただくことになって。

橘右之吉さんと言えば、『笑点』の文字を書かれた橘右近さんのお弟子さんで、今や江戸文字の第一人者。坂東三津五郎さん襲名のときの文字や、中村勘三郎さんの文字などを書かれてきた方。

そんな右之吉師匠が昨年 広島で催事をやられた際にカープの優勝を祈念して書かれた作品を、一介のカープファンであるオレがいただくことになった。
[鯉昇]と書かれた書は、書に全然詳しくないオレが見ても素晴らしいモノだということが分かる。
一つ一つの線やハネの具合に、なにかグッと引き込まれてしまうのだ。
印刷や版木に彫られたものではなく、直筆だからこその勢いや緻密さも感じられる。

そんな”この世に一つしかないマスターピース”を頂くのは光栄なことなのだけど、この作品をウチに飾ってても・・・という思いばかりが頭をグルグルと巡り、「いや、これはウチに置くべきモンじゃないぞ」と。

で、自分なりに考え抜いた結果、広島東洋カープ球団に受け取っていただくことにした。
もちろん、右之吉師匠にも伝えていただいたところ、『へ〜、いろんなことがあるもんだね。やっぱりいろんなの書かなきゃだめなんだよね。ご縁はありがたい。』と非常にお喜びになったそうだ。

 

クライマックス・シリーズ・ファイナル第4戦の試合が始まる2時間ほど前、
球団事務所で球団取締役に手渡ししてきたのだけど、取締役も見た瞬間に無言になられてね。
そして一言、『セキュリティのしっかりしたところで、沢山の人に見て貰える場所に飾らせてもらいますよ』と。

その瞬間、ようやくホッとして身体のチカラが抜けたのでした。
値段の付けられない作品を運ぶだけで、なんか画商の方々のご苦労も ちょっとだけ理解できた気がしたのです(もう懲り懲りです)。

 

その後に観戦した試合で、カープは日本シリーズ出場を決めてくれたのでした。

 

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パッション

ひょんなことから脚本家の筒井ともみさん(失楽園・阿修羅のごとく,etc) と二人で旅をすることになったのだが、これまでに一度も仕事をご一緒したこともないし飲んだこともない。
プロデューサーさんが気を遣ってくれて旅の一週間ほど前に筒井さんのご自宅へ連れてってくれたのだが、大きなオーラや作品に賭ける凄まじい情熱、そして溢れまくる情報量に圧倒され、筒井さんのご自宅を出たとき ちょっと吐きそうになった(苦笑)。

そんな脚本界の大御所と 丸2日ずっと行動を共にさせていただくというのは非常に光栄なことではあるけれど、己の未熟さも充分に理解しているからこそ 何か粗相があってはいけないと下準備などは入念にやった。
なにしろ現地ではオレがレンタカーを運転することになってたし、不慣れな道をスイスイ行けるよう地図を何度も頭に叩き込んだりもした。

 

さて、旅の当日である。
「筒井さん、明日は八重洲中央口でお待ちしてますね」と前夜 連絡を入れると、「地下中央口が良いのだけど」と。
承知しました、モチロンそちらでお待ちしてますと約束した時間より15分も早くスタンバイ。
自信プリタツに「八重洲地下中央口に到着しました!お待ちしてます!」とメールを送ると、すぐさま筒井さんから電話が鳴る。「アタシ、丸の内地下中央口にいるのよ」と。

ダッシュで筒井さんが待ってる改札まで行き、汗だくで新幹線に飛び乗る・・・発車1分前。
吹き出す汗が止まらず、なかなか座れないオレを見て筒井さんは「アナタ、汗すごいわね」(笑)。
そんなドタバタから旅が始まった。

 
しかし、”これは大変な旅になりそうだな” というオレの予想に反して、筒井さんと一緒に行動する旅は とても有意義で楽しかった。
故・松田優作さんとの話や、様々な映画・ドラマ製作時のエピソード、そして昭和の数々の名作を生み出してこられたプロデューサーや監督の話などが筒井さんの語り部によって次々と細かに語られ、感動的な喜劇をずっと観てるようでもあった。

 
そんな筒井さんが時々じっと一点を見つめて黙る時間がある。
何かの声を聴いているのか、目の前の何もない空間で誰かが演じてるのを観ているのか分からないが、絶対に話しかけてはいけないのだということが感覚としてわかるのだ。
そして、そんな時間が数分ほど続いたあと、またニッコリとオレに話しかけてくださる。
・・・そのような時間が、2日間のあいだに何度かあった。

 

 

旅から戻り、一夜明けてプロデューサーから「筒井さん、とっても喜んでたよ」と連絡を貰った。
筒井さんからは帰りの新幹線で次回の旅の話をいただいてたから、おそらく またご一緒することになるだろう。
それまでに、今回の旅で筒井さんがご自身の口で、声で、オレの中に残そうとしてくださってることをしっかり整理しておかないといけない。

大御所とご一緒するのは大変なのだ(笑)。