跳ねるようなマレットの動きと、そして1曲1曲まったく違った顔を見せる木琴の音色にノックアウトされた。

 

平岡養一さんという巨匠から託されたという木琴は、とても繊細そうで、しかも弾きこなすには相当タフでないと扱えないようなワイルドさ、そして気品も兼ね備えた楽器だった。
姉弟子の両手から次々に弾(はじ)きだされる音の一つ一つに、緻密さと美しさがあり、気がつくと あっという間に公演が終了していたくらい、その世界観に引き込まれていたのです。

 

 

「待ってるからね。頑張って!」
・・・今から30年ほど前の京都河原町。
これまで殆ど誰にも話したことはなかったが、京都在住の早坂雅子先生(旧姓: 小笹)に師事していた時代があった。
中学2年くらいだったろうか、あるとき「音楽でメシを食いたい」と思い立ち、故・斎藤秀雄先生のお弟子さんで、地元でも指揮者としてご活躍されていた佐藤正二郎先生の弟子にしていただいた。
”弟子にしていただいた”と書いたが、そこに至るまでが、なかなか大変で(苦笑)。
佐藤先生のご自宅は、実家から電車で1時間、そして駅から歩いて40分くらい。
その道のりを、毎週日曜日に何度も通い、ご自宅の門から中に入れて貰えないので、門の前に正座し、そして10分から15分に一度インターホンを鳴らして、出てこられた先生に「弟子にしてください」と言っては断られ(笑)・・・を何週間も繰り返し、そしてようやく弟子入りが認められた時の条件も「必ず駅から歩いて通うこと」。
いつだったか、台風で暴風警報も出てて、河が氾濫しそうなときも歩いて通ったが、そのときは さすがに帰りは先生の奥さんが車で駅まで送ってくださった(笑)。
当時の佐藤先生は、もう弟子は取るつもりがないと仰ってて、とにかく無理難題を言って断ろうと思ってらっしゃったのではないかと今にして思う。

その佐藤正二郎先生の最後の弟子にしていただいて2年ほど経った頃、ある日いきなり進路を決められ、京都の小笹先生の門下に入るよう言われた。
佐藤先生は色々と考えていただいてたのだろうが、当時のオレや家族は寝耳に水で、かなりザワついた記憶がある(苦笑)。
そんなとき、商売人で腹の据わってるお袋は「先生が行きなさいと言われてるんだから、頑張りなさい」と背中を押してくれたもんである。

 

実家からドア・トゥ・ドアで2時間くらいの道のりだったのが、今度は片道3時間半。
小笹先生は、そんな経緯で門下に入ったオレの事情を知ってか知らずか、でも、とても愛情を持って厳しく指導してくれた。
腹が減ったと言えば、レッスン前に冷凍庫に保存していたご飯を出してくれ、何品かのおかずを作ってくださり、育ち盛りの不真面目なオレに毎回ご馳走してくれた。

そんな頃に、当時 京都市立芸大に通ってらっしゃった姉弟子を紹介された。
とってもチャーミングな方ではあったが、クールで どこか尖ってる感じの印象で、腕は、それはもう当時でも誰もが絶賛するほどの人だった。

しかし、当時のオレは、先生たちにも内緒だったが、家出をして先輩宅に長い間 居候してて、学校も先輩に怒られながらイヤイヤ行ったりし、夜はサパーでバイト。
姉弟子のような、尖った感じの女性も多くいた(当時はバブル時代だったので)ので、そんなに抵抗はなかったし、もっと言えば、この姉弟子のように颯爽と登場してパリッとキメてみたりすることに憧れた(笑)。

で、どこでどういう経緯から そうなったのが覚えてないが、それから何度か姉弟子と河原町でお茶したりメシをご馳走になる機会が何度かあった。

年齢の近い姉弟子は、オレがヤンチャしていることもスグに見抜いたが、それを咎める訳でもなく、毎回長い時間 色んな話をしてくれた。
クールな容姿から、かなりパンチのあるグサグサ刺さる鋭い言葉もあったが、オレはこの姉弟子の話が好きだった。
そして、そんな少々怖い姉弟子が「待ってるからね。頑張って」と言ってくれる言葉に喜び、この人の後輩になって、大学の敷地内をオラオラで歩く自分を想像していた(笑)。

が、今思えば、当時のオレは小手先のテクニックばかり上がり、心構えが足りなかった。
真面目さも全然なかった。
それが理由で、姉弟子が通った学校に行くこともなく、そして地元の音大も2週間で辞めた。
受験の2週間前に警察のご厄介になり、停学くらって丸坊主だった少年の行く末は、そんなモンだ。
そして、それから20数年、大事に育ててくださった2人の恩師に会うことも、姉弟子に会うこともなかったのでした。

 

 

それが、ひょんなことから姉弟子とコンタクトを取ることになった。
とある京都のホールのWEBを見た際、いきなり姉弟子の写真が載ってて。
なんでそうしたのか分からないが、ネットで調べると姉弟子のマネージメントがすぐに出てきたので、その事務所にメールを送った。

その後、とっても丁寧なお返事を貰い、先生の近況も知り、そしてSNSでも繋がった。
色々と面倒なことも多いSNSだが、こういう嬉しいSNSは大歓迎だ。
その後、お会いすることは無かったが、お互いの近況はよく分かる。
すると、1週間ほど前に姉弟子からメッセージが届き、「明日、銀座の王子ホールでコンサートなんだけど来ませんか?」といただいた。
普段なら「調整します」と返すお誘いだが、そこは「行きます、行きます!ぜひ行かせていただきます!」と(笑)、返事をし、それからすぐにムダ毛の手入れをした(嘘w)。

 

で、冒頭の姉弟子のコンサートである。
プレイを聴きながら、色んな想い出が頭の中を駆け巡ったり、曲に引き込まれまくったり、精神的には かなり忙しい時間を過ごした。
終演後、ロビーでオレを見つけた姉弟子は、とっても優しい顔で笑ってくれ、その後の打ち上げにも同行させてくれた。
約30年ぶりに会ったのだけど、相変わらずチャーミングで怖い人だった(笑)。
当時のクールさは無くなってたが、でも やはり怖いもんは怖い(爆笑)。
それから数日して、姉弟子から小笹先生の連絡先の入ったメールが届いた。「連絡しなさい」と。
ドキドキしながらメールし、そしてまた数日経って電話で小1時間ほど話した。
先生の口調も、電話の向こうの感じも全く変わってなくて、「先生、腹が減りました」と言えば、今でも冷凍ご飯をチンしてくれそうなくらい。

佐藤先生が100歳で亡くなられたことは、人から聞いて知っていたが、80歳過ぎてもオケで棒を振ってらっしゃった話、地元の小学校の校歌を90歳を過ぎて作曲された話など、驚くような話も沢山聞けたし、なぜオレが音楽を辞めたのか、そういうことも言葉足らずだったかもしれないが、伝えられたと思う。そして30年間の不義理を何度も詫びた。

 

これまで30年間ずっと、自分の人生の中で蓋をしてきたことだった。
BOSSに呼んで貰って 東京に出てきて、今でこそこの業界でメシを食ってはいるが、自分の過去を口に出したい場面も無かった訳ではない。
でも、結果として それを隠していたことは、ただ単にオレ自身が、自分の人生に蓋をした・・・不義理をしていたことを心苦しく思いながらも、放置していただけだったんだと思う。

 

姉弟子の演奏を聴きながら、実家に放置しっぱなしのKOROGI社のマリンバがあることを ふと思い出した。
次に作業場を移転することがあったら、もう少し広めの部屋で、マリンバと、自分がずっと弾いていたピアノを置きたいなと思った。

 

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