パッション

ひょんなことから脚本家の筒井ともみさん(失楽園・阿修羅のごとく,etc) と二人で旅をすることになったのだが、これまでに一度も仕事をご一緒したこともないし飲んだこともない。
プロデューサーさんが気を遣ってくれて旅の一週間ほど前に筒井さんのご自宅へ連れてってくれたのだが、大きなオーラや作品に賭ける凄まじい情熱、そして溢れまくる情報量に圧倒され、筒井さんのご自宅を出たとき ちょっと吐きそうになった(苦笑)。

そんな脚本界の大御所と 丸2日ずっと行動を共にさせていただくというのは非常に光栄なことではあるけれど、己の未熟さも充分に理解しているからこそ 何か粗相があってはいけないと下準備などは入念にやった。
なにしろ現地ではオレがレンタカーを運転することになってたし、不慣れな道をスイスイ行けるよう地図を何度も頭に叩き込んだりもした。

 

さて、旅の当日である。
「筒井さん、明日は八重洲中央口でお待ちしてますね」と前夜 連絡を入れると、「地下中央口が良いのだけど」と。
承知しました、モチロンそちらでお待ちしてますと約束した時間より15分も早くスタンバイ。
自信プリタツに「八重洲地下中央口に到着しました!お待ちしてます!」とメールを送ると、すぐさま筒井さんから電話が鳴る。「アタシ、丸の内地下中央口にいるのよ」と。

ダッシュで筒井さんが待ってる改札まで行き、汗だくで新幹線に飛び乗る・・・発車1分前。
吹き出す汗が止まらず、なかなか座れないオレを見て筒井さんは「アナタ、汗すごいわね」(笑)。
そんなドタバタから旅が始まった。

 
しかし、”これは大変な旅になりそうだな” というオレの予想に反して、筒井さんと一緒に行動する旅は とても有意義で楽しかった。
故・松田優作さんとの話や、様々な映画・ドラマ製作時のエピソード、そして昭和の数々の名作を生み出してこられたプロデューサーや監督の話などが筒井さんの語り部によって次々と細かに語られ、感動的な喜劇をずっと観てるようでもあった。

 
そんな筒井さんが時々じっと一点を見つめて黙る時間がある。
何かの声を聴いているのか、目の前の何もない空間で誰かが演じてるのを観ているのか分からないが、絶対に話しかけてはいけないのだということが感覚としてわかるのだ。
そして、そんな時間が数分ほど続いたあと、またニッコリとオレに話しかけてくださる。
・・・そのような時間が、2日間のあいだに何度かあった。

 

 

旅から戻り、一夜明けてプロデューサーから「筒井さん、とっても喜んでたよ」と連絡を貰った。
筒井さんからは帰りの新幹線で次回の旅の話をいただいてたから、おそらく またご一緒することになるだろう。
それまでに、今回の旅で筒井さんがご自身の口で、声で、オレの中に残そうとしてくださってることをしっかり整理しておかないといけない。

大御所とご一緒するのは大変なのだ(笑)。

 

 

25年ぶりの

今年の夏は、夏らしいことを殆どしないまま終わりそうだ。
だが、この夏だけで、自分が生きてきたうちの30年ほどを振り返る良い機会がたくさんあったように思う。
旧くからの友人やお世話になった方と数十年ぶりに会えるというのも何かの巡り合わせかもしれないし、そこにまた自分の役目があるのかもしれないとも思う。

 

さて、CARPである。

近年は”カープ女子”などの流行語もできたりして、なかなか観戦チケットが取りにくい人気球団になった感があるが、一昨年はクライマックス・シリーズ1stステージ敗退、そして黒田投手や新井選手が帰ってきた昨年は大きな期待をしたが、結果Bクラスという結果に終わった。
ところがどうだろう、今年は開幕からずっと勝率6割近くをキープ、これまで苦手としていた交流戦も上位でレギュラーシーズンに戻り、そして今や25年ぶりのリーグ優勝に向かって<マジック9>という素晴らしい状態である。

仲間同士での冗談で「今回が25年ぶり、次に優勝するときは死んどるかもしれんけぇ(笑)」などと言い合ってはいるが、やはり嬉しさは格別だ。
すべての広島出身者がカープ・ファンだとは言わないが、多くの広島出身者が、今年のカープの偉業に驚き、そして歓喜の瞬間を待ち望んでいると言っても過言ではないと思う。

 

 

ウチの親父が大学生の頃、広島市民球場でビールの売り子としてバイトしていたということもあって、小学生の時分から なぜか選手たちの控え室などは顔パスだった。
あの頃の市民球場は、選手一人一人にロッカーが無く、若手の選手たちは廊下で着替えたりしてる人たちも居たように記憶している。
当時のスター選手だった方々も、地元で試合があるときにはユニフォームを着て出勤(?)されてたようだから、オレの記憶違いではないと思う。

その、廊下などで着替えをされてる選手の方々に、油性マジックと自分が被ってるキャップを差し出してサインして貰えることの価値を、オレは全く分かってないガキだった(笑)。
池谷、衣笠、外木場、慶彦、ホプキンス、ギャレット、ライトル、古葉さん・・・という、当時でもファン垂涎の選手の方々のサインが、オレの赤いキャップにはところ狭しと描かれていて、「あの帽子、どこに行ったかなぁ〜。今、鑑定団とかに出したらわりと値段が付くだろうなぁ(不謹慎w)」というくらいなのだが、当時はその貴重なキャップを、三角ベースをやるときにグローブ代わりにしたり、砂を入れるバケツ代わりにしたり、あげくには公園に忘れて帰ったりもしてたこともあったくらい。あの頃のオレに会えるなら、懇懇と5時間くらい泣くまで説教してやりたい気分だ(苦笑)。

 

さて、そんなカープ・ファン(笑)歴40年のオレにとっても、今回の優勝へのカウント・ダウンは毎日が嬉しくて仕方ない。
実は、2014年のシーズン終盤頃、いろんなご縁をいただいてカープの応援歌を4名のサウンド・プロデューサーでカバーしてみようかという話になった。

鎌田雅人さん・小林俊太郎くん・Shifoという、多くのヒット作品を世に送り出している作家・サウンドプロデューサーである友人とオレ、そして元レコードメーカーのディレクターで企画し、関係各所と交渉しながら制作をスタートした。

すると、年が明けて黒田投手や新井選手が復帰するというニュースが飛び込んできて、「こりゃ今年は優勝するかもね。早めに仕上げようや!」ということになったのだが、各自 目の前の仕事をしながらということもあって、結局すべての作品が揃ったのがシーズン終盤、おまけにカープはBクラスに終わったもんだから、「年が明けて動きますか・・・」的な感じで2016年を迎えたのです。

そうこうしてると、年明けにエンジニアの森元浩二.さんと別件で仕事をした折に、森元さんがCARPファンであること、お父様方のご実家は今でもマツダスタジアムの真ん前にあることなどが分かり、「じゃぁミックスおねがいします!(笑)」。
・・・とにかくカープ・ファンで作り上げたいという思いが強かったのです。
メジャーのレコードメーカー何社かとも話をしたりしたのだけど、こんなご時世、なかなか進まない・・・というか、都内でカープ・ファンを探すのが難しいのと同じくらい同調してくれる人がいない中で、なんと”ウチの営業担当は、マツダスタジアムでずっとアルバイトしてました”というインディーズ・メーカーが出てきて、また、「渋谷の大手CDショップ旗艦店のJAZZ担当は広島出身のカープ女子なんです!」みたいな話も聞こえてきて、イッキに気持ちも盛り上がってきて。

「やっぱ人だよね」、「やはり”人”です!!」と口に出しながら(結局は他力本願なのだがw)、大変に多くの人にお世話になり始めた頃、カープの優勝の可能性がイッキに上がってきて、もうあとは その流れに乗っかってしまおう!的な感じで今日に至ります。
しかも、この作品の打ち合わせ中(6月初旬)に「このままいくと、8月終盤の巨人との直接対決でマジックが点灯するから、優勝は9月10日前後。だから発売は9月7日!!」と言ったオレの予言(?)が見事的中し、とっても縁起の良い発売日を迎えそうなのです。

 

 

9月7日(広島県内のみ9月1日より先行発売)に全国一斉発売の広島東洋カープ公認ピアノ・インスト・アルバム【CARP SOURCE~ジャズピ味~】は、10曲入り1,500円(本体価格+税)という破格な値段で発売になります。
音楽関係者なら「え?その値段じゃ全然利益でないでしょ?」という なかなかな価格設定ですが(笑)、2年の間に色んな巡り合わせがあり、そしてとっても沢山のカープ・ファンの方々に力を貸して貰って完成したアルバムなので、一人でも多くのカープ・ファンの方々に聴いて貰って、喜んで貰えたらいいなぁと。
そして多くのファンの方と同じく、優勝の瞬間を喜びたいと思っています。

 

 

跳ねるようなマレットの動きと、そして1曲1曲まったく違った顔を見せる木琴の音色にノックアウトされた。

 

平岡養一さんという巨匠から託されたという木琴は、とても繊細そうで、しかも弾きこなすには相当タフでないと扱えないようなワイルドさ、そして気品も兼ね備えた楽器だった。
姉弟子の両手から次々に弾(はじ)きだされる音の一つ一つに、緻密さと美しさがあり、気がつくと あっという間に公演が終了していたくらい、その世界観に引き込まれていたのです。

 

 

「待ってるからね。頑張って!」
・・・今から30年ほど前の京都河原町。
これまで殆ど誰にも話したことはなかったが、京都在住の早坂雅子先生(旧姓: 小笹)に師事していた時代があった。
中学2年くらいだったろうか、あるとき「音楽でメシを食いたい」と思い立ち、故・斎藤秀雄先生のお弟子さんで、地元でも指揮者としてご活躍されていた佐藤正二郎先生の弟子にしていただいた。
”弟子にしていただいた”と書いたが、そこに至るまでが、なかなか大変で(苦笑)。
佐藤先生のご自宅は、実家から電車で1時間、そして駅から歩いて40分くらい。
その道のりを、毎週日曜日に何度も通い、ご自宅の門から中に入れて貰えないので、門の前に正座し、そして10分から15分に一度インターホンを鳴らして、出てこられた先生に「弟子にしてください」と言っては断られ(笑)・・・を何週間も繰り返し、そしてようやく弟子入りが認められた時の条件も「必ず駅から歩いて通うこと」。
いつだったか、台風で暴風警報も出てて、河が氾濫しそうなときも歩いて通ったが、そのときは さすがに帰りは先生の奥さんが車で駅まで送ってくださった(笑)。
当時の佐藤先生は、もう弟子は取るつもりがないと仰ってて、とにかく無理難題を言って断ろうと思ってらっしゃったのではないかと今にして思う。

その佐藤正二郎先生の最後の弟子にしていただいて2年ほど経った頃、ある日いきなり進路を決められ、京都の小笹先生の門下に入るよう言われた。
佐藤先生は色々と考えていただいてたのだろうが、当時のオレや家族は寝耳に水で、かなりザワついた記憶がある(苦笑)。
そんなとき、商売人で腹の据わってるお袋は「先生が行きなさいと言われてるんだから、頑張りなさい」と背中を押してくれたもんである。

 

実家からドア・トゥ・ドアで2時間くらいの道のりだったのが、今度は片道3時間半。
小笹先生は、そんな経緯で門下に入ったオレの事情を知ってか知らずか、でも、とても愛情を持って厳しく指導してくれた。
腹が減ったと言えば、レッスン前に冷凍庫に保存していたご飯を出してくれ、何品かのおかずを作ってくださり、育ち盛りの不真面目なオレに毎回ご馳走してくれた。

そんな頃に、当時 京都市立芸大に通ってらっしゃった姉弟子を紹介された。
とってもチャーミングな方ではあったが、クールで どこか尖ってる感じの印象で、腕は、それはもう当時でも誰もが絶賛するほどの人だった。

しかし、当時のオレは、先生たちにも内緒だったが、家出をして先輩宅に長い間 居候してて、学校も先輩に怒られながらイヤイヤ行ったりし、夜はサパーでバイト。
姉弟子のような、尖った感じの女性も多くいた(当時はバブル時代だったので)ので、そんなに抵抗はなかったし、もっと言えば、この姉弟子のように颯爽と登場してパリッとキメてみたりすることに憧れた(笑)。

で、どこでどういう経緯から そうなったのが覚えてないが、それから何度か姉弟子と河原町でお茶したりメシをご馳走になる機会が何度かあった。

年齢の近い姉弟子は、オレがヤンチャしていることもスグに見抜いたが、それを咎める訳でもなく、毎回長い時間 色んな話をしてくれた。
クールな容姿から、かなりパンチのあるグサグサ刺さる鋭い言葉もあったが、オレはこの姉弟子の話が好きだった。
そして、そんな少々怖い姉弟子が「待ってるからね。頑張って」と言ってくれる言葉に喜び、この人の後輩になって、大学の敷地内をオラオラで歩く自分を想像していた(笑)。

が、今思えば、当時のオレは小手先のテクニックばかり上がり、心構えが足りなかった。
真面目さも全然なかった。
それが理由で、姉弟子が通った学校に行くこともなく、そして地元の音大も2週間で辞めた。
受験の2週間前に警察のご厄介になり、停学くらって丸坊主だった少年の行く末は、そんなモンだ。
そして、それから20数年、大事に育ててくださった2人の恩師に会うことも、姉弟子に会うこともなかったのでした。

 

 

それが、ひょんなことから姉弟子とコンタクトを取ることになった。
とある京都のホールのWEBを見た際、いきなり姉弟子の写真が載ってて。
なんでそうしたのか分からないが、ネットで調べると姉弟子のマネージメントがすぐに出てきたので、その事務所にメールを送った。

その後、とっても丁寧なお返事を貰い、先生の近況も知り、そしてSNSでも繋がった。
色々と面倒なことも多いSNSだが、こういう嬉しいSNSは大歓迎だ。
その後、お会いすることは無かったが、お互いの近況はよく分かる。
すると、1週間ほど前に姉弟子からメッセージが届き、「明日、銀座の王子ホールでコンサートなんだけど来ませんか?」といただいた。
普段なら「調整します」と返すお誘いだが、そこは「行きます、行きます!ぜひ行かせていただきます!」と(笑)、返事をし、それからすぐにムダ毛の手入れをした(嘘w)。

 

で、冒頭の姉弟子のコンサートである。
プレイを聴きながら、色んな想い出が頭の中を駆け巡ったり、曲に引き込まれまくったり、精神的には かなり忙しい時間を過ごした。
終演後、ロビーでオレを見つけた姉弟子は、とっても優しい顔で笑ってくれ、その後の打ち上げにも同行させてくれた。
約30年ぶりに会ったのだけど、相変わらずチャーミングで怖い人だった(笑)。
当時のクールさは無くなってたが、でも やはり怖いもんは怖い(爆笑)。
それから数日して、姉弟子から小笹先生の連絡先の入ったメールが届いた。「連絡しなさい」と。
ドキドキしながらメールし、そしてまた数日経って電話で小1時間ほど話した。
先生の口調も、電話の向こうの感じも全く変わってなくて、「先生、腹が減りました」と言えば、今でも冷凍ご飯をチンしてくれそうなくらい。

佐藤先生が100歳で亡くなられたことは、人から聞いて知っていたが、80歳過ぎてもオケで棒を振ってらっしゃった話、地元の小学校の校歌を90歳を過ぎて作曲された話など、驚くような話も沢山聞けたし、なぜオレが音楽を辞めたのか、そういうことも言葉足らずだったかもしれないが、伝えられたと思う。そして30年間の不義理を何度も詫びた。

 

これまで30年間ずっと、自分の人生の中で蓋をしてきたことだった。
BOSSに呼んで貰って 東京に出てきて、今でこそこの業界でメシを食ってはいるが、自分の過去を口に出したい場面も無かった訳ではない。
でも、結果として それを隠していたことは、ただ単にオレ自身が、自分の人生に蓋をした・・・不義理をしていたことを心苦しく思いながらも、放置していただけだったんだと思う。

 

姉弟子の演奏を聴きながら、実家に放置しっぱなしのKOROGI社のマリンバがあることを ふと思い出した。
次に作業場を移転することがあったら、もう少し広めの部屋で、マリンバと、自分がずっと弾いていたピアノを置きたいなと思った。

 

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