16人と先生方とお父さんお母さんとオレのNコン2016

以前にも書いたが、《秋日傘》という素晴らしい作品がある。
作詞をされた康 珍化さんが、実際に東北の被災したある町の風景を見られ、それを詩にされ、その詩にBOSS(都志見 隆)が曲をつけられ、中西保志さんが歌ってらっしゃる作品で、1年ほど前にリリースされた。

この作品を、石巻市立荻浜中学校の全校生徒さん16名が歌いたいと言い、第83回NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2016)宮城県大会という公の場で混成6部合唱というスタイルで披露することになり、その編曲をやらせていただいた。

編曲を作業場でやっているときに熊本地震が起き、編曲を仕上げてすぐに熊本に向かった。
そんな、震災という哀しい出来事とは切っても切れない、オレにとっても深い思い出を持つ作品になった。

 

この作品を、実際に震災に遭った生徒さんたちが歌う・・・作品や世の中的には大きな意味を持つだろうが、しかし本当にこれで良いのかどうかを何度も自問自答しながら作品に関わらせて貰った。
「今年のNコン、この曲を歌うんだよ」と生徒さんが家に持ち帰ったとき、親御さんたちは どう感じられるのだろう?
いや、大人よりも、震災当時7歳〜9歳だった生徒さんの心には、どんな影響を及ぼすのだろう?
そういったことを考えると怖くなかったかと言えば嘘になる。

だからこそ、真摯に編曲をさせていただいた。
この作品を、東北の方々が歌ってくださることを、作家の先生方は本当に喜んでくださっていた。
この曲を聴いて、この歌を唄うことを、生徒さんたちは真っ直ぐな瞳と言葉で伝えてくれた。
いま思い出しても本当に苦しくて辛い1ヶ月半だったが、多くの人の期待や想いが、自分のポテンシャル以上のものを引き出してくれたような気がする。

 

 
編曲者として、8月16日からNコン当日まで、毎日 生徒さんに合唱の指導をさせていただいた。

1ヶ月ほど前に送られてきた合唱の動画を観たときには、「これはヤバいかもしれん・・・苦笑」と感じるくらい大変な状態だったのだが、さすがは中学生の柔軟で吸収力のある脳みそである。
オレが入って2日目には、ざっくりとだが形になってきた。
恐るべし中学生の集中力、である(笑)。

聞けば、早朝から駅伝の練習で全員が4kmを走り、そのほかにも夏休みの宿題や部活の練習、大会などもあり、そして習い事や塾に行く生徒さんもいるという。
1日の稼働時間で言えば、世のオトナの勤務時間よりも遥かに長い!
そんな中で彼らがオレと過ごす4時間余りを決して無駄にしないようにしようと、厳しく、そして楽しく感じて貰えるように指導した。

 

「本番は、練習の半分くらいしか出ないからな。だから もっともっと練習して、自分を自分で磨いていく努力をしないといけないよ」

・・・・・アーティストに言うセリフそのまんまを中学生に要求もした(苦笑)。
大人と何かを一緒につくっていくということ、プロと音楽を一緒にやるということ、そして何より、ステージ(舞台)に立って 観客に音楽で何かを伝えることの難しさを知るということ、
そんな厳しさも含めて”音楽を楽しい”と思って貰いたいと心底思った。

そんなオレの勝手な想いに彼らは応えてくれ、そして本当によく頑張りました。

 

しかし、本番には魔物がいる。

これは、プロだろうがアマチュアだろうが、舞台に立つ人間にだけ分かる感覚。
彼らや彼らを取り巻く大人たちとて例外ではないのです。

でも、本番が終わって、一人ひとりと握手をして、ホールの外で記念写真を撮ってるときの生徒さんの表情を見て、「彼らは心の底からやり切ったんだな」ということと、「ひとり一人に、今日の結果に思うところがあるんだな」ということが見て取れて、彼らと一緒に音楽をやった数日間が、より尊いもののように思えました。

 

荻中の16人の生徒さん、
みんなを引っ張ったリーダーのルキ、
本当によく頑張りました。

そして先生方、ご父兄の皆さん、
このような機会を与えていただいて、本当に有難うございました。

この歌が、これからも荻浜の海や山や空に響いていくことを、心から願っています。

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復興【もとの盛んな状態に返ること】

約7ヶ月ぶりの石巻・女川は、前回とまた違う街になっていた。
復興のスピードは、以前よりも進んでいるようにも見えるが、人間に必要な衣食住で言えば”住”や 街としての体・態を成すことに重きをおいている様な気がする。

何度も通った道のりの、脇に広がる住宅地には、もう殆ど津波でヤラれた痕を残した家は無いが、海沿いには高い高い壁が立ち、海の色も潮の流れや波も全く見え無い。
日和大橋のテッペンから見える風景は、それはそれは無機質で、その風景が無言で津波の恐ろしさを語っているようにも見える。

 

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女川の病院(現・医療センター)の眼前に広がる風景は、あの頃とは全く異なり、より無機質で、今では どのくらいの高さの津波がこの町を襲ったのかさえ分からなくなっている。
かさ上げされた新しい地面から病院の駐車場までは あまり高さを感じなくなっているし、病院の裏手には新しい駅や綺麗な商店街が並ぶ。

日和山公園から見る風景も、以前とは少し変わった。
真正面に見えていたお寺が全く見えなくなり、その風景を遮っているのは復興住宅である。
当時、真っ黒に焼け焦げていた町には青々と草や樹が茂り、のどかな雰囲気を醸し出してはいるが、その向こうには、先に書いたような高い高い壁が、広く大きく続いている。

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人を”生かす”ために、町を”活かす”ことを放棄し、そして雨風をしのげる場所を多く造り、津波よりも低い防波堤を何億円もかけて造る。
それが、今もっとも必要なことなのだろうが、そうやって人間が知恵を捻って絞り出した答えが、本当に正しいのかどうかは誰にも分からない。

いや、その答えが出るような日が、二度とこないことを心から願う。

 

あの震災から5年と5ヶ月、
この街で会う人たちの心の復興は、まだずっとずっと先のことのような気がする。

 

 

旅、のようなもの

VR作品の、台湾での初リリースは大盛況に終わった。
連日 長蛇の列ができて、2日目などは本来の終了時間よりも40分ほど前に”打ち止め”が出たくらい。ほかにも多くのブースが出ていたが、他のブースの関係者がその光景を写真におさめに来るくらい素晴らしい結果だったように思う。

そこで驚いたのは、日本語で言うところの「いいね!」を表す台湾語「好(ハオ)!」よりも、「キレ〜イ」とか「スゴ〜イ!」という声の多さ。
異国の人たちがVRを観て感嘆の声をあげ、その後にサムズ・アップしてニコニコしながら帰っていく様を見ながら、この作品に関わらせて貰ったことに心から感謝したのです。

 

台湾から帰って20日ほどはアレンジや仕込みの作業に没頭したが、そのあとスグに、また1週間強の旅に出た。
その旅では、自分の歩んできた40数年を数年単位で小刻みに振り返るような体験と感激を多く味わうことになりました。

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最初に降り立った熊本・・・震災以降2度目になるが、熊本城公園内に鎮座される、加藤清正公を祀った加藤神社さんが「震災があったからこそ、市中の状況を神様に見ていただくべき(宮司談)」ということで例年通り清正公祭をご斎行されることになり、参加させていただいたのだが、本当に<神事>というに相応しい、厳粛で感動的な神輿渡御だった。

今回で6回目の参加になるが、光栄にも睦の会長さんからご指名いただいて宮出しの華棒を担がせていただき、まるで地元の人のようにNHKのニュースにもドアップで映されていた(笑)。
マイクを通した宮司の声・言葉にグッと胸が締め付けられ、道中は まだ残る崩壊した建物を見たり涙を拭う沿道の方たちを見て、何度も涙が溢れそうになるのを我慢していたのだが、直会(なおらい)終わりで担ぎ手の打ち上げの折にさせていただいた挨拶で、ついに涙腺が崩壊した。
東北、そして九州と、震災の話題になると 今でも色んな光景が浮かんできて、感情がコントロール出来なくなる。
そして、自分の無力感でいっぱいになる。

 

 

熊本で3日半ほどを過ごし、前夜や前々夜のアルコールが汗になってダラダラと流れるのをハンカチで何度も拭いながら、次なる地・広島へ。

すでに情報解禁になったが、2年半ほど前から準備して様々な方面の方たちのご協力のもと ようやく完成したアルバム作品のプロデューサーとして、在広の媒体ご担当さんと連日の打ち合わせ。
出会った頃はお互い駆け出しで、ただただ「一緒にいることがオモロい」という感覚だけで遊んでいた制作ディレクターたちも、15年強という時間の中で多くの素晴らしい作品が評価され、立派なディレクターになってる。
とは言え、会えば昔のままの距離感だし、飲めば なんだかんだと仕事の話で盛り上がるしなのだが、その一言ひと言の重みや言葉の的確さは、大いに刺激を受けた。

 

3日間強で述べ11番組7人のディレクター、5名の媒体担当と会い、そしてそのほかにも8件の打ち合わせをした。よくもまぁ こんなに多くの広島人と会ったもんである(笑)。

しかし不思議なモノで、30数年振りに会う人も、十数年ぶりに会う人も、そして5年ぶりくらいに会う人も1年ぶりの人も、あの頃と何も変わらない笑顔で手を挙げてくれる。
お互いにジジイ・ババアに片足を突っ込んだ年齢・見た目ではあっても、人と人の触れ合う温度は そうそう変わるもんじゃないのだろう。
そう感じられたことが本当に嬉しかった。

 

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最後の2夜は、墓参りも兼ねて地元に帰った。
2日間もゆっくり滞在するのは いつぐらいぶりだろうと考えてみたが、どうやら相当前のことらしく、全く思い出せない(苦笑)。

昨年に移植手術をした母親が、まだ本調子ではないだろうと思い、1泊は街なか(・・・といっても実家から車で10分ほどのところなのだが)のホテルに泊まることにしたのだが、あいにくスポーツの大きな大会が開催されてたようで どこも空きがなく、結局ウィークリー・マンションと謳ったところに泊まることになった。

カフェを併設するフロントで受付を済ませ、鍵を貰うと「では、ご案内します。ここから少し離れているので」と言われ、オーナーっぽいナリの人の車を付いていくと、見覚えのある細い道をどんどん進んで行く。
「あれ?このまま行ったら この先は確かラブホテルで、そこで行き止まりじゃなかったっけ?」と思いながらついて行くと、案内された先は、まんまと その<元・ラブホテル>(笑)。
17〜8の頃、10枚集めると1泊タダになるサービス券を集めていた、まさにソコだった(爆笑)。
翌日は実家に泊まり、母親のトンチンカンな愚痴をプリタツに聞かされw、そしてまた夜は同級生や後輩と飲み、昔 通学路だった、都内に比べたら かなり薄暗い道を歩いて帰る。
たった2日ほどで、40数年前から30年くらい前までの十数年間を イッキに駆け抜けた気がした。

 

しかし こうして会う人 会う人すべてが、自分にとって財産なのだと心から思う。
16の時に家出をして、それから約2年ほど衣食住すべての面倒をみてくれてた先輩と会った瞬間に向けてくれた笑顔にはヤラれた。
子供やダンナがいるにも関わらず、夜22時にオレが帰ってきてると知ってチャリで駆けつけてくれた同級生の喜んでくれる表情にもヤラれてしまった。
「んじゃ、また!」と言って別れれば、自分の帰る場所は あの元・ラブホテル、エントランスを入った途端にいきなり澱んだ空気に変わるアノ場所に帰るのもイヤで、このまま この時間がずっと続けばいいのにと願った(笑)。

トンチンカンな愚痴を永遠に息子に聞かせる天然な母親に産んで貰い、ある程度の自我が目覚めた頃から あの通学路を何千回も往復し、そして家を出て先輩の家に転がり込んでからオトナの世界を知り、地元を離れて また多くの出会いと別れを繰り返し、そのうちの たった1回の衝撃的な出会いを機に東京に出てきて 多くの業界の人たちと知り合い、キャンペーンで行った熊本で劇的な出会いをして そこからまた沢山の人と知り合い、・・・・・そんなことを本当に沢山思い出せた日々だった。

 

まだまだ続くね。いや、続けていかなければならないと思うし、続けていきたいと思う。
生きるって、生きていきながら誰かとまた出逢っていくって、めっちゃ刺激的な旅みたいなもんだ、と、こうして つい2週間ほど前のことを振り返っても、強くそう思うのです。