四半世紀

友人の作曲家・Shifoの作品に『25年ぶりの手紙』という名曲がある。
歌詞自体が実際に25年ぶりにクーペさんという方の娘さんから届いた手紙に対する返信で、非常に心のこもったものだから、心の最奥をグッと掴まれるのだが、その詩をしっかりと引き立たせるShifoのソングライティングが光る作品。
15年ほど前に この作品が世に出ると、様々な場所で大きな反響がおき、そしてShifoやクーペさんを取り巻く環境でも色んな現象もあったと聞いている。

 

25年・・・四半世紀というと、とっても長い時間ではあるのだけど、何か人とひとが再会したり、また何かが始まりそうな予感があったりみたいな不思議なサイクルのようなモノがあるんだろうな。
つい最近のBOSSのブログにも、25年前に書いた作品の関係者の方々と再会し云々・・・なことが綴られていたし。

 

実はオレも、数日ほど前に25年ぶりの再会をしてきた。

遡ること29年、バブル絶頂期の頃。
その当時のオレは、あの時代に一世を風靡したディスコ(死語だな、もうw)で働いていた。
DJ見習いとして、今じゃありえないが「無休・無給」でレギュラーDJを目指してた同列の若者が13人ほどいて、オレもその中に。

ボディ・コンシャスの派手に着飾った女性たちや、大きめのダブルのスーツに身を包んだ男性が、キラキラと光る店内で遊んでいるのを横目に見ながら、昼の1時から朝方5時くらいまでDJブースの外に齧り付き、朝方のコンビニでバイトをして数時間仮眠したらジーンズ屋のバイトに行く・・・という生活が半年ほど続いたのだが、13人の見習いの真ん中くらいにいたオレだけが、運良くレギュラーに引き揚げられ、その後 3年半ほど、イヤというほど曲を聴き、そしてプレイさせて貰った。

その時代にディスコで遊んでいた方たちも40代後半から50代になり、時間にも生活にも余裕が出てくる年齢になったのだろう、先日 広島で、当時のスタッフをはじめ西日本地区の取締役などもほぼ全員集まる『MAHARAJA SPARKLING NIGHT』という、現場に行って驚いたくらいド派手なイベントが開催され、オレはDJとしてプレイさせて貰ってきた。

 

25年ぶりに再会した皆さん、とっても良い年齢の重ね方をされててね。
そして、今をしっかりと生きてらっしゃるなぁと。

そのお一人おひとりに色んなことがあったのだろうけど、ミラーボールやムーヴィング照明が煌めく空間では、当時の若者に戻ってるような気がした。

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ここからまた四半世紀になると、もう生きてる人のほうが少なくなってるだろうから(笑) こんな機会は二度とないと思うけど、自分の25年前を振り返らせてくれた貴重な1日に感謝してるのです。

また今日から、自分のフィールドで、コツコツと一つずつ積み上げていこうと思ってます。

 

 

セピア色の時代

この年齢になってくると、ガキの頃に遊んだりしてた仲間の消息や現在の様子が、ふとした時に気になったりする。
まだ良いも悪いもハッキリと理解できてなくて、色んなオトナに迷惑もかなりかけたのだろうが、そんな年齢や時代だったからこそ想い出も深いものがあるんだろうな。

一番多感な時期を過ごしたのは、映画『この世界の片隅で』の舞台となった旧澤原邸と同じ地区。
あの坂道を転がるボールを追っかけて走ってた半ズボンの少年が、いつしか学ラン着て自転車で駆け下りるようになり、そのうちスクーターや単車で夜中に走るようになる。

家を出て先輩の家に転がり込み、夜はサパーで働いて 昼くらいにバイクで学校に行くという生活が2年ほどあったのだが、そのとっても世話になった先輩の半世紀のお祝いが地元で開催されるというので、機材を持って演者として参加させて貰ってきた。

 

300人を超える人たちが集まった会場で何十年ぶりかに会う同級生や後輩の、その殆どが建築業界で独立して社長や親方として頑張ってるのを見て、刺激を通り越して嬉しさで一杯になった。
オレが地元を離れてもう30年近く経つが、彼らが現場で下積みをして積み上げてきたもののボリュームは相当なものがあったのだろうと思う。

一緒にサウナに入り、酒を飲み、そして大いに笑った。
翌日も後輩の焼き鳥屋に集合して飲み明かした。

一人ツブれ、二人帰り、そしてまた一人ツブれ・・・・・で、気づくと外は陽が昇ってたのだが(笑)、「んじゃ、また!」が 今度は そう遠くない再会になる気がして、晴れ晴れとした気持ちでホテルまで歩いて帰った。

 

そんな素敵な2日間、
飲み始めよりも若干 人数は減ってるけど(笑)、先輩・同級生・後輩で並んで唯一撮ったスナップがコレ。

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こうして また肩を並べて笑いあえるように頑張ろう、ここ最近は彼らのこの日の笑顔が、オレのモチベーションになっている。

 

 

恭賀新年

明けましておめでとうございます!
今年もどうかよろしくお願いいたします。

 

例年通り、大晦日の午後7時以降から3ケ日は、飲んで食って笑って過ごしていたのですが、その暴飲暴食が原因で3日に体調を少々崩してしまい、あらかじめ用意していた日本酒が少しだけ残ってしまったことだけが心残りなのですが (苦笑)、正月中に少しだけ増えてしまった体重を元に戻しつつ、今日からまた元気に1年を過ごしていこうと意気込んでいます。

 

今年はどんな1年になるだろう?、今年はこんなことをやりたいな、等 早速いろいろと考えてますが、まずは目の前のことから一つずつ誠実に、丁寧に進めていこうと思います。

どうか本年もよろしくお願いたします。

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振り返らずに、忘れよう

1年が経つのが本当に早い。
とはいえ、誰しも同じように時間は過ぎていっているのは分かってるし、別段に生き急いでる訳でもないのだけれど、時間の体感度が ここ数年は格段に早くなってるように感じる。
それを”トシをとったから”と感じるか、”充実”と捉えるかは人それぞれだ。
ヤり足りなかったこと、反省点など挙げるとキリがないが、こうして健康で、そして指を折って数えても余るほどの作品を世に出させて貰えたことは、”充実”以外のなにものでもないと思う。

 

毎年この時期になって、往く年の残り日数を数えるようになると、なぜか少しだけブルーになる。
自分は今年ちゃんとやれたか、出会ったり作品を聴いてもらった人たちに喜んでもらえたか、そして来年の今頃も仕事はあるのか(苦笑)、など。
この仕事をするようになって、ずっとそんなことばかり考えてるような気がする。

そんな理由もあって、この時期にBlogを書くのは本当に億劫だ。
面倒くさいというのではなく、気がのらない。
「ポジティヴではない自分を世界中にさらけ出してしまうということが恥ずかしい」と感じるほどセンシティヴな性格ではないが、でも少しくらいはカッコをつけたい(笑)。

 

 
さてさて、そんなことをウダウダうじうじと考えてる間に、今年ももう残り3日ほどになった。
12月の初旬に「あ、ブログを書かねば・・・」と思ってたはずなのだが、いつの間にかもう20日近く経ってしまってる。
広島から新幹線で都内へ戻る4時間弱は とても長く感じるが、ドキドキしながらタイトなスケジュールの作品を進めてたり『忘年会』という言い訳を肴に飲み歩いていた20日間は あっという間に過ぎる(苦笑)。
もっと言えば、カープの勝敗に酔ったり憂いたりしていた2016年の2/3は遥か昔のことのようにさえ感じるのだ。

だから、ちょっとだけブルーになる。
「オレ、ちょっとボケが入ってきてない?」 と(爆笑)。

 

今年1年も色んなことがあった。
去年よりは少しだけ頑張ったかな、とか振り返りたいが、思い出そうとしてみると本当に色んなことがあり過ぎて、振り返るのをヤメた(苦笑)。
そう、本当に色んなことがあった。

有頂天になりそうなくらい嬉しいことや良いことも沢山あったが、悲しいことや切ないこと、己の無力さを突きつけられるようなこともあった。
その一つ一つの出来事にあった感情は、1年という時間を過ごしていく間に膨大な量になっていて、振り返るとまた歩き出すのが大変になりそうだなぁ なんて思う。
だから、今年はもう己の過ごした1年を振り返る作業はしないでおこうと思うのだ。

 

 

今夜は、このあと19時から毎年恒例の<ミュージシャン忘年会>が開催される。
この業界の人なら誰でも名前を知ってる大ベテランから、まだ世に名前が出る前の若手まで、多くの音楽関係者が集まり(昨年は200人超)、貸切られたお店で ただひたすらに飲む(笑)。
この<ミュージシャン忘年会>が終わると、オレの2016年も仕事納めになる。

”今年を忘れる会”、・・・・・忘年会ってホントいい言葉だね。
今年あった色んなことは、もう振り返らずに忘れようと思う。

 

新しく迎える次の1年に対する抱負も ずっと変わらない。
真摯に音楽や作品と向き合うこと、そして常に自分の作品に厳しくあること。
これはBOSSから教えられたこと。

そして、オレが東京に出てきたときから 17年間ずっと思ってることを、また来年もカタチにしていこうと思う。

 

BOSSに教えられたこと2つ、そして自分の信念1つ、
この3つだけをギュッと握ってれば、また来年も なんか頑張れそうな気がする。

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無駄な経験など何ひとつない(と思ってます40代)

カープに一喜一憂する日々が終わり、また元の生活に戻った。
25年ぶりに味わう嬉しさや、大人になって初めて経験した”応援するチームが負ける”残念さなど、久しぶりに日本のプロ野球を大いに愉しんだシーズンだったように思う。

 

さて、また元の生活に戻れば戻ったで、この<プチ・引き篭もり生活>にも色んな出来事や出逢いがある。
PCと鍵盤の前に座ってタバコを燻らせてる間に、いつの間にか陽が沈んでいたりする日もあるが、そうかと思えば 午前中から夜まで「あぁ今日はほんまに仕事したわ!」と口にするくらいバタバタする日もなぜかある(笑)。

そんな日々の中で、時折 打ち合わせや会食で出かけるのだけれど、そこで この年齢になってまた出逢う人達の、味というか人間臭さが最近のマイブームだったりする。

 

 

我々の業界でのビジネス・・・いわゆる『音楽パッケージ販売』が売れなくなって もうかなりな時間が経過する。
”売れない”という話は どこに行っても聞くが、不思議なことに「こうしたら売れました」という話は殆ど聞かない。

じゃぁ売れる仕掛けにトライしてるかと周りを見渡すと、そういった取り組みも目立っては見えてこないのが現実で、スタジオで仕上げた原盤をメーカーさんに持ち込み、パッケージ化して流通させるというカタチは何一つ変わっていなかったりする。

と、言いながらも、じゃぁお前なにかヤってんの?と言われると、やってなかったし、試してみたいことがある訳でも無かったのだが、実はカープにかまけてマツダスタジアムに何度も足を運んだり、グッズを購入したりしてる際に「あれ?これってヤってみると面白いかもしれんな」というヒントを幾つか得たりして、手探りではあるものの、ちょっと頑張ってみようという気になってるのです。

 

そのトライの一環で、今日は亀有のとある町工場さんへ。
わりと自分的には知ってるつもりだったのだけど、話を伺ってると「へぇ〜!こんなことも出来る時代になったんですね!」と自分の無知さと 時代に置いてかれた感、そして感動で胸が一杯になる。
そして工場の社長さんの、サンプルを大事に扱う手に、キュンとするのです(笑)。
・・・前にも書いたと思うのだけど、『手フェチ』なもんで(笑)。

おそらく、今オレがトライしてることって、とっくの昔に誰かがトライしてて、コストなのか需要なのか分からないけど それで良い結果に繋がらなかったりしたから、今 誰もやってないのだと思うのだけど。
でも、<時代>とか<タイミング>とか きっとあると思うし、誰もやってないから自分もやらずに、世の中の端っこでグズグズ言ってるのは、全く性分に合わないのです。

 

「1,000円で1万枚売るのが難しい時代なら、5,000円で2千枚売れるモノを作ってみる」
くらいの思い切ったことをしてみるのも、面白いんじゃないかと思って。

最近 ”出逢う人”や ”出会うモノ・目に留まるモノ”が、そんなことを教えてくれるような気がする、
・・・・・のは、気のせいではないと思って頑張ってます(笑)。

 

 

 

登竜門

初めて降りる岩国錦帯橋空港の風景は新鮮だった。

知り合いから「いつも広島空港を使ってるの?不便でしょ?遠いし。岩国空港は便利だよ」と言われてたのをふと思い出して、航空券の予約をする際に[岩国]を選択した。

飛行機は少し小さめだったが、新しくて快適。
最近よく新しい機体に当たるのだが、以前のものに比べて、座り心地も良いし、よく眠れるような気がする。
1年ほど前に3台ほどまとめて購入したBOSEのノイズキャンセラー機能のついたヘッドフォンをすれば、ジェットの「ゴォ〜」という音も、泣いてる赤ちゃんの声も全く気にならない・・・というか、気にする前に眠ってしまっているのだが(笑)。。。

 

で、いよいよ念願の(?) 岩国空港に降り立った。
時刻は午後6時30分、ちょうどクライマックス・シリーズ第3戦が開催されていて、黒田投手が投げ始めてる頃だろう。
空港には赤いユニフォームを着た方々も結構いらっしゃった。

そんな方々や、スーツに身を包んだサラリーマンの方々と一緒に駅までバスで移動。
・・・で、ちょっと驚く。
シャトルバスのような専用バスを想像してたのだが、ごく普通の路線バス。
しかし、お陰で久しぶりに見る岩国の街の様相が少し楽しめたような気がする。

そして JR岩国駅から山陽本線に乗り換え。
ホームにある喫煙スペースに喜び、そしてホームに入ってきた車輌を見て驚く。
「え?昔のグリーンとオレンジの電車じゃないじゃん!?」

なかなか新しい、スタイリッシュな車輌でゴトンゴトンと広島へ。
なんかこういうのも悪くないなぁ〜と感じていたのだが、都内からの移動時間が3時間近くになると、さすがに飽きてきた(苦笑)。
真っ暗で、外の風景を見れないからというのもあるだろうけど、大きなスーツケースを持って移動するには、ちょっと厳しいのかなと。

 

 

さて、今回の広島は、<クライマックス・シリーズ第4戦を観戦する>ということのほかに、もう一つ重大なミッションがあった。

実は、とあるご縁から、橘右之吉さんの書かれた書をいただくことになって。

橘右之吉さんと言えば、『笑点』の文字を書かれた橘右近さんのお弟子さんで、今や江戸文字の第一人者。坂東三津五郎さん襲名のときの文字や、中村勘三郎さんの文字などを書かれてきた方。

そんな右之吉師匠が昨年 広島で催事をやられた際にカープの優勝を祈念して書かれた作品を、一介のカープファンであるオレがいただくことになった。
[鯉昇]と書かれた書は、書に全然詳しくないオレが見ても素晴らしいモノだということが分かる。
一つ一つの線やハネの具合に、なにかグッと引き込まれてしまうのだ。
印刷や版木に彫られたものではなく、直筆だからこその勢いや緻密さも感じられる。

そんな”この世に一つしかないマスターピース”を頂くのは光栄なことなのだけど、この作品をウチに飾ってても・・・という思いばかりが頭をグルグルと巡り、「いや、これはウチに置くべきモンじゃないぞ」と。

で、自分なりに考え抜いた結果、広島東洋カープ球団に受け取っていただくことにした。
もちろん、右之吉師匠にも伝えていただいたところ、『へ〜、いろんなことがあるもんだね。やっぱりいろんなの書かなきゃだめなんだよね。ご縁はありがたい。』と非常にお喜びになったそうだ。

 

クライマックス・シリーズ・ファイナル第4戦の試合が始まる2時間ほど前、
球団事務所で球団取締役に手渡ししてきたのだけど、取締役も見た瞬間に無言になられてね。
そして一言、『セキュリティのしっかりしたところで、沢山の人に見て貰える場所に飾らせてもらいますよ』と。

その瞬間、ようやくホッとして身体のチカラが抜けたのでした。
値段の付けられない作品を運ぶだけで、なんか画商の方々のご苦労も ちょっとだけ理解できた気がしたのです(もう懲り懲りです)。

 

その後に観戦した試合で、カープは日本シリーズ出場を決めてくれたのでした。

 

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パッション

ひょんなことから脚本家の筒井ともみさん(失楽園・阿修羅のごとく,etc) と二人で旅をすることになったのだが、これまでに一度も仕事をご一緒したこともないし飲んだこともない。
プロデューサーさんが気を遣ってくれて旅の一週間ほど前に筒井さんのご自宅へ連れてってくれたのだが、大きなオーラや作品に賭ける凄まじい情熱、そして溢れまくる情報量に圧倒され、筒井さんのご自宅を出たとき ちょっと吐きそうになった(苦笑)。

そんな脚本界の大御所と 丸2日ずっと行動を共にさせていただくというのは非常に光栄なことではあるけれど、己の未熟さも充分に理解しているからこそ 何か粗相があってはいけないと下準備などは入念にやった。
なにしろ現地ではオレがレンタカーを運転することになってたし、不慣れな道をスイスイ行けるよう地図を何度も頭に叩き込んだりもした。

 

さて、旅の当日である。
「筒井さん、明日は八重洲中央口でお待ちしてますね」と前夜 連絡を入れると、「地下中央口が良いのだけど」と。
承知しました、モチロンそちらでお待ちしてますと約束した時間より15分も早くスタンバイ。
自信プリタツに「八重洲地下中央口に到着しました!お待ちしてます!」とメールを送ると、すぐさま筒井さんから電話が鳴る。「アタシ、丸の内地下中央口にいるのよ」と。

ダッシュで筒井さんが待ってる改札まで行き、汗だくで新幹線に飛び乗る・・・発車1分前。
吹き出す汗が止まらず、なかなか座れないオレを見て筒井さんは「アナタ、汗すごいわね」(笑)。
そんなドタバタから旅が始まった。

 
しかし、”これは大変な旅になりそうだな” というオレの予想に反して、筒井さんと一緒に行動する旅は とても有意義で楽しかった。
故・松田優作さんとの話や、様々な映画・ドラマ製作時のエピソード、そして昭和の数々の名作を生み出してこられたプロデューサーや監督の話などが筒井さんの語り部によって次々と細かに語られ、感動的な喜劇をずっと観てるようでもあった。

 
そんな筒井さんが時々じっと一点を見つめて黙る時間がある。
何かの声を聴いているのか、目の前の何もない空間で誰かが演じてるのを観ているのか分からないが、絶対に話しかけてはいけないのだということが感覚としてわかるのだ。
そして、そんな時間が数分ほど続いたあと、またニッコリとオレに話しかけてくださる。
・・・そのような時間が、2日間のあいだに何度かあった。

 

 

旅から戻り、一夜明けてプロデューサーから「筒井さん、とっても喜んでたよ」と連絡を貰った。
筒井さんからは帰りの新幹線で次回の旅の話をいただいてたから、おそらく またご一緒することになるだろう。
それまでに、今回の旅で筒井さんがご自身の口で、声で、オレの中に残そうとしてくださってることをしっかり整理しておかないといけない。

大御所とご一緒するのは大変なのだ(笑)。

 

 

25年ぶりの

今年の夏は、夏らしいことを殆どしないまま終わりそうだ。
だが、この夏だけで、自分が生きてきたうちの30年ほどを振り返る良い機会がたくさんあったように思う。
旧くからの友人やお世話になった方と数十年ぶりに会えるというのも何かの巡り合わせかもしれないし、そこにまた自分の役目があるのかもしれないとも思う。

 

さて、CARPである。

近年は”カープ女子”などの流行語もできたりして、なかなか観戦チケットが取りにくい人気球団になった感があるが、一昨年はクライマックス・シリーズ1stステージ敗退、そして黒田投手や新井選手が帰ってきた昨年は大きな期待をしたが、結果Bクラスという結果に終わった。
ところがどうだろう、今年は開幕からずっと勝率6割近くをキープ、これまで苦手としていた交流戦も上位でレギュラーシーズンに戻り、そして今や25年ぶりのリーグ優勝に向かって<マジック9>という素晴らしい状態である。

仲間同士での冗談で「今回が25年ぶり、次に優勝するときは死んどるかもしれんけぇ(笑)」などと言い合ってはいるが、やはり嬉しさは格別だ。
すべての広島出身者がカープ・ファンだとは言わないが、多くの広島出身者が、今年のカープの偉業に驚き、そして歓喜の瞬間を待ち望んでいると言っても過言ではないと思う。

 

 

ウチの親父が大学生の頃、広島市民球場でビールの売り子としてバイトしていたということもあって、小学生の時分から なぜか選手たちの控え室などは顔パスだった。
あの頃の市民球場は、選手一人一人にロッカーが無く、若手の選手たちは廊下で着替えたりしてる人たちも居たように記憶している。
当時のスター選手だった方々も、地元で試合があるときにはユニフォームを着て出勤(?)されてたようだから、オレの記憶違いではないと思う。

その、廊下などで着替えをされてる選手の方々に、油性マジックと自分が被ってるキャップを差し出してサインして貰えることの価値を、オレは全く分かってないガキだった(笑)。
池谷、衣笠、外木場、慶彦、ホプキンス、ギャレット、ライトル、古葉さん・・・という、当時でもファン垂涎の選手の方々のサインが、オレの赤いキャップにはところ狭しと描かれていて、「あの帽子、どこに行ったかなぁ〜。今、鑑定団とかに出したらわりと値段が付くだろうなぁ(不謹慎w)」というくらいなのだが、当時はその貴重なキャップを、三角ベースをやるときにグローブ代わりにしたり、砂を入れるバケツ代わりにしたり、あげくには公園に忘れて帰ったりもしてたこともあったくらい。あの頃のオレに会えるなら、懇懇と5時間くらい泣くまで説教してやりたい気分だ(苦笑)。

 

さて、そんなカープ・ファン(笑)歴40年のオレにとっても、今回の優勝へのカウント・ダウンは毎日が嬉しくて仕方ない。
実は、2014年のシーズン終盤頃、いろんなご縁をいただいてカープの応援歌を4名のサウンド・プロデューサーでカバーしてみようかという話になった。

鎌田雅人さん・小林俊太郎くん・Shifoという、多くのヒット作品を世に送り出している作家・サウンドプロデューサーである友人とオレ、そして元レコードメーカーのディレクターで企画し、関係各所と交渉しながら制作をスタートした。

すると、年が明けて黒田投手や新井選手が復帰するというニュースが飛び込んできて、「こりゃ今年は優勝するかもね。早めに仕上げようや!」ということになったのだが、各自 目の前の仕事をしながらということもあって、結局すべての作品が揃ったのがシーズン終盤、おまけにカープはBクラスに終わったもんだから、「年が明けて動きますか・・・」的な感じで2016年を迎えたのです。

そうこうしてると、年明けにエンジニアの森元浩二.さんと別件で仕事をした折に、森元さんがCARPファンであること、お父様方のご実家は今でもマツダスタジアムの真ん前にあることなどが分かり、「じゃぁミックスおねがいします!(笑)」。
・・・とにかくカープ・ファンで作り上げたいという思いが強かったのです。
メジャーのレコードメーカー何社かとも話をしたりしたのだけど、こんなご時世、なかなか進まない・・・というか、都内でカープ・ファンを探すのが難しいのと同じくらい同調してくれる人がいない中で、なんと”ウチの営業担当は、マツダスタジアムでずっとアルバイトしてました”というインディーズ・メーカーが出てきて、また、「渋谷の大手CDショップ旗艦店のJAZZ担当は広島出身のカープ女子なんです!」みたいな話も聞こえてきて、イッキに気持ちも盛り上がってきて。

「やっぱ人だよね」、「やはり”人”です!!」と口に出しながら(結局は他力本願なのだがw)、大変に多くの人にお世話になり始めた頃、カープの優勝の可能性がイッキに上がってきて、もうあとは その流れに乗っかってしまおう!的な感じで今日に至ります。
しかも、この作品の打ち合わせ中(6月初旬)に「このままいくと、8月終盤の巨人との直接対決でマジックが点灯するから、優勝は9月10日前後。だから発売は9月7日!!」と言ったオレの予言(?)が見事的中し、とっても縁起の良い発売日を迎えそうなのです。

 

 

9月7日(広島県内のみ9月1日より先行発売)に全国一斉発売の広島東洋カープ公認ピアノ・インスト・アルバム【CARP SOURCE~ジャズピ味~】は、10曲入り1,500円(本体価格+税)という破格な値段で発売になります。
音楽関係者なら「え?その値段じゃ全然利益でないでしょ?」という なかなかな価格設定ですが(笑)、2年の間に色んな巡り合わせがあり、そしてとっても沢山のカープ・ファンの方々に力を貸して貰って完成したアルバムなので、一人でも多くのカープ・ファンの方々に聴いて貰って、喜んで貰えたらいいなぁと。
そして多くのファンの方と同じく、優勝の瞬間を喜びたいと思っています。

 

 

跳ねるようなマレットの動きと、そして1曲1曲まったく違った顔を見せる木琴の音色にノックアウトされた。

 

平岡養一さんという巨匠から託されたという木琴は、とても繊細そうで、しかも弾きこなすには相当タフでないと扱えないようなワイルドさ、そして気品も兼ね備えた楽器だった。
姉弟子の両手から次々に弾(はじ)きだされる音の一つ一つに、緻密さと美しさがあり、気がつくと あっという間に公演が終了していたくらい、その世界観に引き込まれていたのです。

 

 

「待ってるからね。頑張って!」
・・・今から30年ほど前の京都河原町。
これまで殆ど誰にも話したことはなかったが、京都在住の早坂雅子先生(旧姓: 小笹)に師事していた時代があった。
中学2年くらいだったろうか、あるとき「音楽でメシを食いたい」と思い立ち、故・斎藤秀雄先生のお弟子さんで、地元でも指揮者としてご活躍されていた佐藤正二郎先生の弟子にしていただいた。
”弟子にしていただいた”と書いたが、そこに至るまでが、なかなか大変で(苦笑)。
佐藤先生のご自宅は、実家から電車で1時間、そして駅から歩いて40分くらい。
その道のりを、毎週日曜日に何度も通い、ご自宅の門から中に入れて貰えないので、門の前に正座し、そして10分から15分に一度インターホンを鳴らして、出てこられた先生に「弟子にしてください」と言っては断られ(笑)・・・を何週間も繰り返し、そしてようやく弟子入りが認められた時の条件も「必ず駅から歩いて通うこと」。
いつだったか、台風で暴風警報も出てて、河が氾濫しそうなときも歩いて通ったが、そのときは さすがに帰りは先生の奥さんが車で駅まで送ってくださった(笑)。
当時の佐藤先生は、もう弟子は取るつもりがないと仰ってて、とにかく無理難題を言って断ろうと思ってらっしゃったのではないかと今にして思う。

その佐藤正二郎先生の最後の弟子にしていただいて2年ほど経った頃、ある日いきなり進路を決められ、京都の小笹先生の門下に入るよう言われた。
佐藤先生は色々と考えていただいてたのだろうが、当時のオレや家族は寝耳に水で、かなりザワついた記憶がある(苦笑)。
そんなとき、商売人で腹の据わってるお袋は「先生が行きなさいと言われてるんだから、頑張りなさい」と背中を押してくれたもんである。

 

実家からドア・トゥ・ドアで2時間くらいの道のりだったのが、今度は片道3時間半。
小笹先生は、そんな経緯で門下に入ったオレの事情を知ってか知らずか、でも、とても愛情を持って厳しく指導してくれた。
腹が減ったと言えば、レッスン前に冷凍庫に保存していたご飯を出してくれ、何品かのおかずを作ってくださり、育ち盛りの不真面目なオレに毎回ご馳走してくれた。

そんな頃に、当時 京都市立芸大に通ってらっしゃった姉弟子を紹介された。
とってもチャーミングな方ではあったが、クールで どこか尖ってる感じの印象で、腕は、それはもう当時でも誰もが絶賛するほどの人だった。

しかし、当時のオレは、先生たちにも内緒だったが、家出をして先輩宅に長い間 居候してて、学校も先輩に怒られながらイヤイヤ行ったりし、夜はサパーでバイト。
姉弟子のような、尖った感じの女性も多くいた(当時はバブル時代だったので)ので、そんなに抵抗はなかったし、もっと言えば、この姉弟子のように颯爽と登場してパリッとキメてみたりすることに憧れた(笑)。

で、どこでどういう経緯から そうなったのが覚えてないが、それから何度か姉弟子と河原町でお茶したりメシをご馳走になる機会が何度かあった。

年齢の近い姉弟子は、オレがヤンチャしていることもスグに見抜いたが、それを咎める訳でもなく、毎回長い時間 色んな話をしてくれた。
クールな容姿から、かなりパンチのあるグサグサ刺さる鋭い言葉もあったが、オレはこの姉弟子の話が好きだった。
そして、そんな少々怖い姉弟子が「待ってるからね。頑張って」と言ってくれる言葉に喜び、この人の後輩になって、大学の敷地内をオラオラで歩く自分を想像していた(笑)。

が、今思えば、当時のオレは小手先のテクニックばかり上がり、心構えが足りなかった。
真面目さも全然なかった。
それが理由で、姉弟子が通った学校に行くこともなく、そして地元の音大も2週間で辞めた。
受験の2週間前に警察のご厄介になり、停学くらって丸坊主だった少年の行く末は、そんなモンだ。
そして、それから20数年、大事に育ててくださった2人の恩師に会うことも、姉弟子に会うこともなかったのでした。

 

 

それが、ひょんなことから姉弟子とコンタクトを取ることになった。
とある京都のホールのWEBを見た際、いきなり姉弟子の写真が載ってて。
なんでそうしたのか分からないが、ネットで調べると姉弟子のマネージメントがすぐに出てきたので、その事務所にメールを送った。

その後、とっても丁寧なお返事を貰い、先生の近況も知り、そしてSNSでも繋がった。
色々と面倒なことも多いSNSだが、こういう嬉しいSNSは大歓迎だ。
その後、お会いすることは無かったが、お互いの近況はよく分かる。
すると、1週間ほど前に姉弟子からメッセージが届き、「明日、銀座の王子ホールでコンサートなんだけど来ませんか?」といただいた。
普段なら「調整します」と返すお誘いだが、そこは「行きます、行きます!ぜひ行かせていただきます!」と(笑)、返事をし、それからすぐにムダ毛の手入れをした(嘘w)。

 

で、冒頭の姉弟子のコンサートである。
プレイを聴きながら、色んな想い出が頭の中を駆け巡ったり、曲に引き込まれまくったり、精神的には かなり忙しい時間を過ごした。
終演後、ロビーでオレを見つけた姉弟子は、とっても優しい顔で笑ってくれ、その後の打ち上げにも同行させてくれた。
約30年ぶりに会ったのだけど、相変わらずチャーミングで怖い人だった(笑)。
当時のクールさは無くなってたが、でも やはり怖いもんは怖い(爆笑)。
それから数日して、姉弟子から小笹先生の連絡先の入ったメールが届いた。「連絡しなさい」と。
ドキドキしながらメールし、そしてまた数日経って電話で小1時間ほど話した。
先生の口調も、電話の向こうの感じも全く変わってなくて、「先生、腹が減りました」と言えば、今でも冷凍ご飯をチンしてくれそうなくらい。

佐藤先生が100歳で亡くなられたことは、人から聞いて知っていたが、80歳過ぎてもオケで棒を振ってらっしゃった話、地元の小学校の校歌を90歳を過ぎて作曲された話など、驚くような話も沢山聞けたし、なぜオレが音楽を辞めたのか、そういうことも言葉足らずだったかもしれないが、伝えられたと思う。そして30年間の不義理を何度も詫びた。

 

これまで30年間ずっと、自分の人生の中で蓋をしてきたことだった。
BOSSに呼んで貰って 東京に出てきて、今でこそこの業界でメシを食ってはいるが、自分の過去を口に出したい場面も無かった訳ではない。
でも、結果として それを隠していたことは、ただ単にオレ自身が、自分の人生に蓋をした・・・不義理をしていたことを心苦しく思いながらも、放置していただけだったんだと思う。

 

姉弟子の演奏を聴きながら、実家に放置しっぱなしのKOROGI社のマリンバがあることを ふと思い出した。
次に作業場を移転することがあったら、もう少し広めの部屋で、マリンバと、自分がずっと弾いていたピアノを置きたいなと思った。

 

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16人と先生方とお父さんお母さんとオレのNコン2016

以前にも書いたが、《秋日傘》という素晴らしい作品がある。
作詞をされた康 珍化さんが、実際に東北の被災したある町の風景を見られ、それを詩にされ、その詩にBOSS(都志見 隆)が曲をつけられ、中西保志さんが歌ってらっしゃる作品で、1年ほど前にリリースされた。

この作品を、石巻市立荻浜中学校の全校生徒さん16名が歌いたいと言い、第83回NHK全国学校音楽コンクール(Nコン2016)宮城県大会という公の場で混成6部合唱というスタイルで披露することになり、その編曲をやらせていただいた。

編曲を作業場でやっているときに熊本地震が起き、編曲を仕上げてすぐに熊本に向かった。
そんな、震災という哀しい出来事とは切っても切れない、オレにとっても深い思い出を持つ作品になった。

 

この作品を、実際に震災に遭った生徒さんたちが歌う・・・作品や世の中的には大きな意味を持つだろうが、しかし本当にこれで良いのかどうかを何度も自問自答しながら作品に関わらせて貰った。
「今年のNコン、この曲を歌うんだよ」と生徒さんが家に持ち帰ったとき、親御さんたちは どう感じられるのだろう?
いや、大人よりも、震災当時7歳〜9歳だった生徒さんの心には、どんな影響を及ぼすのだろう?
そういったことを考えると怖くなかったかと言えば嘘になる。

だからこそ、真摯に編曲をさせていただいた。
この作品を、東北の方々が歌ってくださることを、作家の先生方は本当に喜んでくださっていた。
この曲を聴いて、この歌を唄うことを、生徒さんたちは真っ直ぐな瞳と言葉で伝えてくれた。
いま思い出しても本当に苦しくて辛い1ヶ月半だったが、多くの人の期待や想いが、自分のポテンシャル以上のものを引き出してくれたような気がする。

 

 
編曲者として、8月16日からNコン当日まで、毎日 生徒さんに合唱の指導をさせていただいた。

1ヶ月ほど前に送られてきた合唱の動画を観たときには、「これはヤバいかもしれん・・・苦笑」と感じるくらい大変な状態だったのだが、さすがは中学生の柔軟で吸収力のある脳みそである。
オレが入って2日目には、ざっくりとだが形になってきた。
恐るべし中学生の集中力、である(笑)。

聞けば、早朝から駅伝の練習で全員が4kmを走り、そのほかにも夏休みの宿題や部活の練習、大会などもあり、そして習い事や塾に行く生徒さんもいるという。
1日の稼働時間で言えば、世のオトナの勤務時間よりも遥かに長い!
そんな中で彼らがオレと過ごす4時間余りを決して無駄にしないようにしようと、厳しく、そして楽しく感じて貰えるように指導した。

 

「本番は、練習の半分くらいしか出ないからな。だから もっともっと練習して、自分を自分で磨いていく努力をしないといけないよ」

・・・・・アーティストに言うセリフそのまんまを中学生に要求もした(苦笑)。
大人と何かを一緒につくっていくということ、プロと音楽を一緒にやるということ、そして何より、ステージ(舞台)に立って 観客に音楽で何かを伝えることの難しさを知るということ、
そんな厳しさも含めて”音楽を楽しい”と思って貰いたいと心底思った。

そんなオレの勝手な想いに彼らは応えてくれ、そして本当によく頑張りました。

 

しかし、本番には魔物がいる。

これは、プロだろうがアマチュアだろうが、舞台に立つ人間にだけ分かる感覚。
彼らや彼らを取り巻く大人たちとて例外ではないのです。

でも、本番が終わって、一人ひとりと握手をして、ホールの外で記念写真を撮ってるときの生徒さんの表情を見て、「彼らは心の底からやり切ったんだな」ということと、「ひとり一人に、今日の結果に思うところがあるんだな」ということが見て取れて、彼らと一緒に音楽をやった数日間が、より尊いもののように思えました。

 

荻中の16人の生徒さん、
みんなを引っ張ったリーダーのルキ、
本当によく頑張りました。

そして先生方、ご父兄の皆さん、
このような機会を与えていただいて、本当に有難うございました。

この歌が、これからも荻浜の海や山や空に響いていくことを、心から願っています。

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