時代を超えて歌い続けられる名曲

リーグ4連覇のかかった今年のカープは、開幕から他チームに完膚なきまでにヤラれる日々が続いた。
開幕戦こそ完封勝ちしたものの、その後の12試合の成績を合計すると<32-75>というダブルスコア以上の負け方で、中には「0-9」「1-10」「3-15」という 高校野球の地区予選ならコールド負けのような不甲斐ないゲームすらあった。

在京のニュースなどでも この異常事態を報じていたくらいだから、地元・広島の新聞紙面などは かなりなものだっただろうし、お好み焼き屋や居酒屋などでは毎夜 くだを巻くカープファンが さぞ多かっただろうなと思う。

 

しかし、その後 少しずつではあるが しっかりと立て直し、ここ数試合ではあるが4連勝、それも”勝ち方を知っているチーム”らしい勝ち方をしている。
勝負事の歯車は、一度ズレると泥沼にハマるまで崩れてしまうが、それが何かの拍子にガチッと噛み合うと こんなにスムースに勝てるものなのかと驚くくらい 今や『強いカープ』である。

 

 

そんなカープ連勝ニュースの陰から そっと顔を出すように、有馬 三重子さんのお名前がネットニュースに掲載された。

 

作詞家・有馬三恵子さんと聞いて、それでスグにピンとくる方は多くないかもしれない。
でも《それ行けカープ〜若き鯉たち〜》や《勝て勝てカープ》と聞けば、カープファンで知らない者はいないと思う。

1975年の初優勝した年に発売されたレコード《それ行けカープ〜若き鯉たち〜(B面 / 勝て勝てカープ)》は、中国地方だけで30万枚を超えるセールスを記録し、初優勝後には<ヴィクトリー・カープ>も発売された。
これらの作品は、すべて 有馬三恵子さんと作曲家・宮崎尚志さんのコンビによるもの。

 

そんな有馬三恵子さんの代表曲として一番に挙げられるのが<小指の思い出>なのだが、オレがおそらく物心ついて最初に聴いた歌が 《それ行けカープ》、そして次に聴いた歌がコレだったと思う。(発売から考えると順序は逆なはずだが、そこは広島県民なので・・・笑)

https://youtu.be/g4DcV-vfhY4  南 沙織 / 17才

 

この歌は、その後 森昌子さんや桜田淳子さんがカバーされ、アルバムに収録されたのだが、発表から18年経った89年に森高千里さんのシングル曲として再度 注目された。
(このシングル「17才」のc/wが なぜ<20才>という曲だったのは謎なのだけど)

そして2008年に銀杏BOYZがカバーしたり、最近でもアイドルグループがカバーしたりと、47年間に渡って多くのアーティストやリスナーに愛されてきた歌。

 

そんな時代を超えて歌われ・愛され続ける名曲を数多く世に出されてきた有馬さんだが、2019年シーズン、なかなか不甲斐ない試合ばかりだったカープが ようやくまとまってきて、連勝し始めた矢先に お亡くなりになられた。

 

カープが25年ぶりにリーグ優勝した2016年の1年前、まだBクラスだったが黒田投手がヤンキースから広島に帰ってこられた際に「オレらも 何か応援できないかな」とカープファンの音楽プロデューサーやエンジニアと CarpLovers+(カープラヴァーズプラス)というユニットで カープ応援歌のピアノカバー曲制作に着手した頃から 有馬先生や宮崎先生の歴史を一層 深く知ることになり、このユニットで作ったアルバム【CARP SOURCE〜ジャズピ味〜】がビルボード国内チャートのTop10入りしたり、大手通販サイトのランキングでも3部門で1位にならせていただいたことなどから 続編の制作もすることになり、計二枚のアルバムで 有馬先生・宮崎先生コンビの作品を大変多くカバーさせていただいた。

代表曲でもある《それ行けカープ〜若き鯉たち〜》は、<Love CARP ver.>としてオレ自身も
ガッツリと編曲させていただいている。
https://www.amazon.co.jp/それ行けカープ-Love-Carp-ver/dp/B0778Z4HBP
(このver.は、在広のスポーツ番組やカープ報道などで本当に沢山 BGMとして使っていただき、現在も使っていただいてるそうで、在広局の皆さまには感謝しかないです)

 
千葉の方にお住まいで、でも マツダスタジアムにも足を運ばれて応援されているということは 人づてに聞いていたが、出版社経由でご承諾や許諾をいただいていたので、とうとう最後まで手渡しでアルバムをお渡しすることが出来なかったのだが、毎回 快くご快諾くださり、いつかお会いしたら ちゃんとお礼を言わねばと思っていただけに、有馬先生のご訃報は残念でならない。

明日で生まれてきてから50年、丈夫に産んでくれた親には もちろん感謝しているが、小学校1年生だったクソガキが赤いキャップを被り、滑り台の上で「カープ♪ カープ♪」と口ずさんでからの40年以上、まさか自分が将来 先生の楽曲を触らせてもらうことになるとは思ってもいなかった。本当に感謝しているのです。

 

有馬先生、
先生の書かれた詞、描かれた光景は、これからも広島の人たちの心に、そして広島の街にずっと流れていくと思います。
そして また、CarpLovers+として、大事に大事にカバーさせていただきたいと思っています。

ご冥福を心からお祈りいたします。

 

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いつのまにか満開になってた桜に気づき、かき醤油味の付いた広島のりを巻いたのと [旅行の友] をまぶした 朝メシ代わりの握り飯を持って隅田川沿いへ出かけた。
新しい元号が発表になるという前日だからか、やはり花見シーズンだからなのか、例年にも増して賑やかな川沿いの桜の根元に腰をおろした瞬間、ようやく<3月>から解放され、少しだけ背負っていたものを降ろせたような気になれた。

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昨年1年間のほぼ毎日 ずっと向き合わせてもらっていた映画の公開に合わせて、熊本と広島の舞台挨拶に監督や役者さんらと同行させていただいた。
色々なご縁をいただいている熊本だが、初めてお邪魔した立派な劇場では大変手厚いおもてなしを受け、上映後に劇場に入ると 見知った顔も多かったのだが、その殆どの方の眼から涙が溢れているのを見て 心から有難く思った。

広島の劇場は公開3日目だったが 満員で、万雷の拍手の中で舞台挨拶が行われ、その熱量が上映中に どのように変わっていくのか どうしても見たくて、劇場の方に無理を言って席をご用意いただき、来場されてたお客さんと一緒に観させていただいたのだが、エンディング・ロールが流れ始めたあたりで 隣にいらっしゃった俳優の眼 鏡太郎さんは声をあげて泣いてらっしゃった。
約1ヶ月間、南大隅町で合宿生活のような撮影を経て、こうして超満員のお客さんの熱を目の当たりにしたことで その感激も一入、”冥利に尽きる”とは こういうことなんだとお感じになられたらしい。
[ カメラを止めるな] など、ヒット作品にも多くご出演されてる 脂のノった役者さんだが、そんな人ですら感激してしまうほどの劇場内の熱量を感じれたことは オレ自身にとって とても大事な経験になった。
眼さんのお陰で オレは泣くタイミングを完全に外してしまったが (笑)、眼さんの涙は とっても綺麗な、そして責任感のある涙だった。

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都内に戻り、2週間ほど籠ってデモを仕上げてからは ひたすら採譜の日々が続いた。
2年ぶりとなる【ザギンdeユーミン】が銀座TACTという由緒あるライヴハウスで開催されることになり、十数曲の上モノの音を拾ってはリアレンジしていく・・・という作業は 一朝一夕・右から左に出来るような簡単なことではない。
が、細野晴臣さん・松任谷正隆さん・佐藤博さんらが40年前に組み上げられた編曲のイメージをトレースさせていただける機会なんて そうそう無い。
なかなか大変な作業だったし 本番前日に使う予定だったシンセが いきなりブッ壊れ、BANKデータなど全てフッ飛んでしまうという頭真っ白・衝撃的なこともあったが、ライヴは超満員、とても楽しくやらせていただいた。

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Photo by Tokiya Utanaga

 

「3月もあと5日ほどで終わる、残りの日々は 作業場の片付けなどもしながら 少しゆっくりして新年度に臨もう」と思っていた矢先、療養中だった知人の訃報が入った。
46歳、まだまだ これからが人生本番という中で、ご本人も頑張ってらっしゃったのだが、容体が急変して そのままお亡くなりになった。

月に一度 プレイさせていただいてた渋谷のクラブのキッチン・チーフだったのだが、彼女の作るフードは 何を食べても美味く、そして目立たないように手の込んだ料理を作る名シェフだった。
どセンターにヴォーカルがいて、オケの出入り・パンの振り方などの定位感が とってもよくまとまってる音を聴いてるような、・・・そんな音楽的な料理を作れる数少ない人だなぁという印象をオレは持ってた。
ご主人もDJだからか、選曲や繋ぎにも非常に敏感で、プレイを終えてバーカウンターに行くと キッチンから出てきて「サイコ〜」とサムズ・アップしてくれた日にゃ、嬉しくなって その後のオレの酒量は自然と増えるのも当たり前w、今でも”亡くなられた”という気がしない。

 

でも、・・・でも、隅田川沿いにしゃがんで 握り飯を片手に キラキラ光る水面を見てたら ふと「桜の時期になると彼女のことを思い出すようになるんだろうな」と、思った。

 

 

なんだか 色んなことがあった3月が終わった。

 

平成という時代が終わろうとする間際に、いろんなものを背負わせていただいたような気がする。
喜びや悲しみ、腹の底でグッと抑えた怒りや どう感情で表現すれば良いのか分からないようなこともあった。そして、色々な”表情”もたくさん見せていただいた。
この1ヶ月に感じたり見たりしたことだけでも、自分自身の情緒が随分と豊かに・幅広になるのではないかと意識してしまうくらい。
色んな意味で 豊かな日々を過ごさせて貰ったのだと思う。

 
さて、己に出来ることを精一杯、そして出来るか出来ないかスグには判断できないような高いハードル越えもガムシャラに、
ここから またギアを1段階も2段階もあげて、もっともっと強く進んでいきたいなと思うのです。

 

新たな時代の幕開け、令和元年も どうか宜しくお願いします。

 

 

 

 

映画『きばいやんせ!私』3月9日公開です。

3月9日に公開になる映画『きばいやんせ!私(武 正晴 監督・足立 紳 脚本 / 主演:夏帆・太賀)の音楽を書かせていただいてます。

http://kibaiyanse.net

 

九州最南端の鹿児島県南大隅町の豊かな自然を舞台に、不倫騒ぎで人生のどん底に落とされた主人公・貴子(夏帆)が取材対象である伝統的な祭りの復活を通して、 仕事との向き合い方や生き方を見つめ直し 自分の人生にも輝きを取り戻そうと奮闘する「笑いと涙の復活劇」。

楽しくて、どこか懐かしさもあって、牧歌的で、少し弾けてて、でもしっかりとした味わいのある素敵な作品です。

ぜひ劇場でご覧いただきたい作品です。
3月9日ロードショー、どうか宜しくお願いいたします。

 

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オレも君も新たなスタート

 

新年明けましておめでとうございます。

今年は三が日だけ しっかりダラダラして、4日からジョギングや筋トレをスタートしたのですが、5日の午後から発熱しまして(苦笑)。
・・・もはや正月に体調を崩すのが定番になってきています(笑)。

 

さて、先日は成人の日でしたね。
新成人の皆さま、おめでとうございます。

全国各地で成人式が始まる数時間前、前日の京都から大移動して 久しぶりの仙台の駅に降り立ちました。
目的は”女川町の成人式に出席すること”。

 

2011年の東日本大震災、その後 被災地で最初に復学したのが女川第一中学校でした。
その震災直後に入学してきた新1年生が卒業するまでの間・・・2年半ほどの中で、何度も女川にお邪魔し、一緒に給食を食べたり、音楽作品を作ったり、アーティストのコンサートツアーの裏方を務めたりしたのですが、そのときの生徒さんたちが 成人を迎えられたのです。

 

彼らと一緒に作った 『空』(作詞:Satomi・作曲:都志見 隆)という楽曲と、『羽よ、魂となれ。』(作詞:Satomi・作曲:岡本真夜)という2曲を収録したシングルは、なんと当時のオリコン・チャートでも上位に入ったのですが、『空』は その後の女川第一中学校で<青空プロジェクト>という生徒さん主導の活動が始まり、PTAの総会でもご父兄の方々が毎回歌ったり、校内や町の行事でも歌われ、震災後の女川の町で多くの方々に歌っていただいた楽曲になりました。

彼らが卒業する際には、卒業式のプログラムにも全くなかったにも関わらず、閉会宣言を遮って いきなり全員で歌い始め、ざわついた会場が 歌が進むにつれ静かになり、そして歌い終わった後には、会場が大きな拍手に包まれました。

 

 

その卒業式の後、Rくんという学校で1・2を争うくらいヤンチャだった生徒が オレのところに来て みんなの前で言いました。
「山元さん、オレらが成人するときに来てよ」と。

彼らの歌を録るとき、「一緒にこうやって作品を作るってことは、最低でも君らが成人するまで付き合うつもりでオレは作品を作ってる」と言っていたのですが、それをRくんは しっかり覚えていてくれたのです。
「おう!もちろんだよ。その時に一緒に酒が飲めるなら、オレが全員の酒代を払ってやるよ!」

・・・あとから「あ、卒業生って100人以上いるなぁ。。。大きく出すぎたかなぁ」と ちょっと後悔したのですが(笑)、その約束を胸に刻み、数年を過ごしていました。
もちろん、その間にも女川をはじめ石巻などに何度もお邪魔していたのですが、そのときの卒業生に会う機会はなく、今回会うのが実に5年ぶり。

 

成人式の朝、新調した着物や袴に着替えながら、Rくんは「山元さん、来るかなぁ・・・」とお母様に言ったそうです。
それを聞いたお母様は「うん、絶対に来るよ!」と仰ったと伺いました。

行きますとも!!(笑)

 

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成人式、そして実行委員会による式典、新成人だけで集まって初めて飲む二次会、先生方との三次会、と明け方まで続いた宴 すべてに参加させてもらいました。
色々書きたいのだけど、その1日の素敵な想い出は、文字にするには大きすぎて、オレの胸の中にしまっておこうと思います。

 

離れても遠くの青い空の下で元気に頑張る 女川町出身の新成人の皆さんにも届く作品が作っていけるよう、今年も頑張ります。

 

 

 

さて、来年も頑張ろう!

作業場や自宅の掃除を終え、正月用の買い物を済ませて ようやく一息つきました。

 

「光るものは よりピカピカに、そうでないものもピカピカに」は、BOSSの言葉。

来年も 1人でも多くの方に届く作品が作れるよう、一つひとつ誠実に作品と向かい合っていきたいと思っています。

 

今年も大変にお世話になりました。

皆さま、どうか佳い新年をお迎えくださいまし!!

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暮らしの劇伴

少し落ち着いたので、作業場の環境をいろいろ思い切って変えることにした。
愛着のある古いモノで勝負することも またあるだろうが、やはり どんどんと新しいモノを取り入れて、使って、時代の流れに慣れて行くことも必要だと考えた。

大枚払ってメール1通、ダウンロードするための1行のコードとマニュアル。
昔のように楽器屋に行って店頭でお兄さんとアレコレ話して機材を買うということも無くなり、ネットでカートに入れ、決済したら すぐに使える時代だ。
高価なオーケストラ音源などは アクティベートするまで不安でドキドキするが、購入したあとのなんとも言えない味気ない感じにも少し慣れてきた。

 

いくつかのソフトをダウンロードする際に かなり時間があったので、過去に制作した音源やデータなども少し整理していたのだが、ある1曲を聴いていて 思わず手が止まり、何度も何度も繰り返し聴いた。

 

 

 

 

『Home & Life』
2011年に作らせていただいた作品で、住まい方アドバイザーの近藤典子さんとダイワハウスがコラボレートした「ケーススタディハウス」のWebに曲を書いてくれないかと、近藤典子Home&Life研究所の在原社長からオーダーをいただいた。

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近藤さんとダイワハウスがコラボしたケーススタディハウスは、2006年5月に広島で最初のモデルハウスが完成し、その後2007年に横浜と神戸、2008年に名古屋が完成した。
その広島・横浜・神戸・名古屋のケーススタディハウスごとにWebサイトがあったのだが、2010年末あたりからサイトのリニューアルが始まり、発注を貰った頃は最後の仕上げをされていたようだった。

東日本大震災から数ヶ月経った頃で、半年以上先まであった仕事が全てキャンセルになり、石巻や女川に長く滞在して、これまでに見たこともないような色んなことを体験している最中で、大きな自然災害の前での音楽の無力さを感じたり、自分自身の これまでやってきたことに疑問を感じたりしていたのだが、目先の仕事も無いオレを気遣って発注してくれた社長の想いに応えようと、震災後まだ整理できていない 散らかった作業場で、ピアノの前に座った。

 

 

鍵盤に触ろうとすると、現地で見た風景が鮮明に蘇り、とてもじゃないが ”暮らし心地よさ”を表現するようなメロディなんて全く浮かんでこない。
毎日 朝から晩まで座ってるだけで2日経ち 3日経ち・・・すぐに数日が過ぎていった。

そんな日々を過ごしているうち、ふと「今のオレに書けるものを書いてみよう」と思った。
少し張りつめていた気持ちが軽くなった気がした。

 

自分の見た、人の一生、
当たり前の生活ができることの尊さ、
人が生きる上での哀しみや喜び、
そして人生という時間、
それらを包むような曲が書きたいと思い、完成した2分の曲を何度も練習し、一発録りした。

http://www.hli.jp/nagoya/

 

 

まだ劇伴など1曲も書いたことが無い頃で、思えば この曲がオレの劇伴第1号と言っても良いかもしれない。
津波で流されたり、大きな穴が開いた 寒々とした家々に、いつか暖かな光が灯るようにと願いながら書いたこの曲を聴いていると、当時の色々な想いが蘇ってくる。
Webのコマーシャル用音楽として発注をいただいたが、人の暮らしに寄り添える曲が書きたいと強く思って書いた・・・今思えば、いろんな人の暮らしに合う”<劇伴>が書きたい”と思ったのかもしれないと思う。

 

良い曲を書こう、
素直にそう思った。

 

 

あっという間に1年

 

この仕事を始めて もうかなり経つが、こんなに毎日音楽に明け暮れた年は無かったように思う。

 

昨年のクリスマス、
プロデューサーが予約してくださったスペイン料理屋で監督に会うのは3度目だった。

1度目は恵比寿のレストランで開催された何かの親睦会で。
2度目は『嘘八百』という中井貴一さんと佐々木蔵之介さんW主演の作品の試写会で。
そして3度目。

「この映画はスペイン音楽で勝負したい」と、フラメンコの生演奏が鳴り響く店内でオレに言われた。

 

その翌日、スペインでスペイン音楽史をずっと研究されてる方に「スペイン音楽を書くには どうしたら良いか?」と素人のような質問をした。
今まで自分が聴いてきたスペイン音楽の知識だけでは きっと高い打点のものが作れない、本能的にそう思ったから。
その上、フラメンコ特有の「コンパス」というリズムは一朝一夕には体に染み付いていかない。

 
”朝起きて眠るまで、毎日ずっとフラメンコを聴きなさい”

その1行、その一言を信じて、半年間ずっと そんな生活を続けた。
ビンテージのフラメンコギターとクラシックギターを買い、毎日何時間もずっと弾いた。

 

書いても書いても修正の連続で、壁に貼ったリストには×印や「再改訂」「再々改訂」「再々々改訂」の文字がいくつも並び、曲データのファイルにも同様の文字が並んだ。

朝起きて、翌朝眠るまで、毎日が文字通り『音楽漬け』だった11ヶ月間、あんなに飲みに出ていたオレが プライベートで一切 酒を飲むこともなかった。

そんな書き方をすると、まるで修行僧のような厳しい生活をしていたようになってしまうが、実は 毎日が楽しくて仕方なかった。
修正や変更で 楽曲の構成やアレンジに頭を悩ませることばかりだったが、なぜか楽しくて楽しくて仕方なかった。

 

すべての楽曲に監督からOKが出て、オーケストラの譜面を書き、スタジオに入る。
レコーディングは11日間、その半分以上が過ぎた頃、アシスタントに「オレ、今週の平均睡眠時間って どれくらいだろうな?」と冗談を言ったら、ササッと計算して「47分ちょっとです」と(笑)。

 

寝不足で 幻聴も幻覚も何度かハッキリ見えた そんな11日間のレコーディング最終日、スタジオでの監督チェック。
すべての曲を聴き終えた監督の口から出た『よし、これで世界と勝負できる!』という言葉を聞いて、レコーディング・エンジニアが背中を震わせて泣いた。
でもオレは不思議と そんな感動もなく、「まだまだだ」という思いだけが より強くなった。

ダビングが終わっても、主題歌のレコーディングが終わっても、全く”終わった”という気分にはなれなかった。

 

0号試写を経て、出演者の方もすべて揃う初号試写、
オレのとなりにはギターを弾いてくれた木村 大氏が座っていた。
上映中、すすり泣くような音が何度も近くから聴こえた。

最後まで感動に全く浸ることなく、エンディングロール、そして主題歌。
曲が終わって 監督の名前が上がってくる。

その時、急に涙が奥のほうから大量に押し寄せてきた。
「ちょっと待って!まだまだ、まだまだオレはヤれる!ちょっと待って!終わらんでくれ!」
・・・そんな気持ちでいっぱいだった。

 

 

11ヶ月間、どんなことがあろうと 絶対にくじけない、そして努力や研鑽を忘れない、そんな音楽屋になるよう監督には本当に鍛えていただきました。
ここから残りの音楽屋人生、どんな作品であろうと 準備を怠らず、この作品で経験したことをのすべてを一つ一つ実践していこうと思います。

 
そして、録音部の石寺さん、音効の柴崎さん、東映撮影所の小林さん、
みなさんとご一緒できた日々は、今後の音楽屋人生の中で一つの宝物です。
またご一緒できるよう、日々しっかりとやっていきます。

 

こんなポンコツで出来損ない、たいした才能の無い音楽屋が多くのご関係者の皆さんにご迷惑をかけたり、力を貸して貰いましたが、その恩が返せるよう、そして一人でも多くの人が作品を観て何かを感じてくださるよう、もっともっと努力します!!

 

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”やらない偽善” より ”やる偽善”

地元が、そして西日本が大変なことになった。
報道では「豪雨による水害」と言われているが、もはや水害で片付けられるレベルではない。
200名を超す方々がお亡くなりになり、今も7千人以上の方が避難生活を余儀なくされている。自然の猛威という言葉だけでは済ませられない、やるせない思いを抱いている方々が本当に沢山いらっしゃる。

地元である呉市は、周りの地域から繋がる道路が土砂崩れで全て潰れ、陸の孤島と化した。
水は止まり、食料品などはあっという間にスーパーやコンビニから消え、その後の物資の流入も途絶えた。

人口20万人ほどの大きくない街で、急な坂道が多くて高台に住む高齢者が多いということもあり、給水所まで行けない方のお宅は水が手に入らず、大変な状況になっていた。
もちろん年老いた両親が二人で暮らしているウチの実家も同様で、お袋に電話したら「もうしょうがないね。このまま二人で死んでもいいねってお父さんと話をしている」と言う。が、しかし道路が全て遮断され、オレが助けに行くこともできない。

 

そんな家庭が、たった2日ほどで何万世帯も出ていたのだろう。
民生委員をされている同級生のお母様が、役所に その現状を知って貰い、なんとかできないかと電話したのだが、”けんもほろろ”な対応をされたらしい。
こんな大きな災害が起きるなどとはお役所も思っていなくて、相当テンパっていたんだろう。

お役所の応対した職員の対応や、ご自身の無力さに よほど腹が立たれたのだろう、オレの同級生である娘さんに電話して、その憤りをブチまけたらしい。
その娘さんも広島市内から実家に帰れない状態の中、お母さんのお気持ちを知ってどうしようもなくなり、SNSで友人相手に少々愚痴ったのだった。

 

彼女の投稿した文章を たまたま読み、すぐに彼女に電話した。
オレ自身も、地元に帰れない状況に悶々としていたし、何かを変えたいという思いがあった。

・・・2時間近く話しただろうか、広島市内にいる彼女と都内にいるオレ、その二人で とにかく動いてみようということになった。
彼女と電話で話している中で、オレ自身が石巻や女川、そして熊本にお邪魔させていただいて経験させて貰ったことが とても大きな経験として自分の中にあるということにも改めて気付いた。
「どこにおっても(いても)、何かできるじゃろ!」

 

彼女は地元の同級生に連絡を取って協力を募り、オレはポータルサイトを運営している友人などにも協力を頼み、情報をSNSでとにかく発信しまくる。
「広範囲で断水の続く呉市では、坂道の多い地域がかなりあり、給水所まで行けないご高齢者の方が大変に苦しい思いをされている。本当に少しでも良いので 給水所から民生委員さんのお宅までお水を運ぶ力を貸して貰えないだろうか」という内容を、出来るだけ分かりやすく、そして簡潔に伝えようと心がけた。
もちろん、他の地域でもお困りの方が沢山いらっしゃるので、動いていただける方は近くの民生委員さんに是非 提案してほしいということも忘れずに書き加えておいた。
本陣は、民生委員をされている彼女の実家にした。

「同級生のお母さんが子供に話したら、”学校も休みだから明日から行く”って言ってくれたらしくてね、すぐに自ら友達に電話して、あっという間に20人くらい明日来てくれることになったんよ!」と、彼女から嬉しそうな連絡が入った頃、オレが投稿したSNSは あっという間にシェアが100近くまで伸びていた。
普段からSNSは利用しているが、700人を超える人と繋がっていても、SNS上でやり取りしてるのは100人前後、おそらく その普段から繋がっている方々がスグにシェアしてくださったのだろうと思っていた。

 

シェアが100件を超えると、急に名前も聞いたことのない方々のシェアが目立つようになってきた。
プロフィールを覗きに行くと、全く知らない方々で、全国各地や海外の方までいた。
本当に有難い。

また彼女からの電話が鳴る。
「さっき話した同級生のお母さんも呼びかけてくれて、数が増えてるんだけど、ウチの母親にぜんぜん連絡がつかないんよ」
後で知ったのだが、その頃 彼女のお母さんは、あちこちから掛かってくる「是非お手伝いしたい」という電話が鳴りっぱなしで、連絡先として掲載した固定電話の前から 夜まで全く動けなかったらしい。
改めてSNSの持つパワーを知った。

 

翌日、
市内の和庄小学校に集まった方々は中高生約100名、保護者の方々を加えると大変な規模になり、機転を利かせたお母さん(同級生と電話で連絡を取り合ってた方。この方がまた凄いんだわ)のファインプレイで、急遽 隣町の小学校給水所にも分かれて行き、10チームが高台のご高齢者のお宅 百数十軒に水を届けた。

2リットルの水1本は2kgと決して軽くはない。
その水を一人が何本も抱え、坂を登り下りするのは、かなりな重労働だ。
中学生だと2往復強、高校生でも3〜4往復もすればヘトヘトになる。また炎天下だから熱射病の恐れもある。
そんな過酷な重労働を中高生が一生懸命にやり遂げられたと聞いて、胸が熱くなった。
オトナであるオレが、その場に居られないことを本当に申し訳なく思った。

彼らの頑張りを聞いた自治会長も登場し、彼ら全員にかき氷を振舞われたそうだ。
出来たら水の1本でも運んでいただきたいなぁとは ちょっと思ったのだが(笑)。
でも、とにかく この<ウォーター・ボーイズ&ウォーター・ガールズ>の活躍が、様々な大人たちの背中を押したことは間違いない。
SNSに投稿したレポートを目にした他地域でも、同様の行動を起こされる方々が出始めた。
なんと、今日現在では市内のあちこちの地域でご高齢者のご家庭に水を運ぶ方々が増え、役所にも水を受け取りに行けない方々に対応する専用ダイアルまで設置された。
差し障りがあるといけないので詳しくは書けないが、とある国家公務員の方々も「ぜひお手伝いしたい」と上職の方から 同級生の彼女の友人であるお母さんに連絡が入ったりもしているそうだ。

 

同級生がSNSにあげた小さな小さな叫びが、そして自ら率先して水を運んだ中高生の方達の小さな一つ一つの手が、これだけ大きな結果に繋がるのを少しだけお手伝いさせて貰って、「呉って本当に良い街だなぁ」と感じた。
この未曾有の災害の真っ只中にあって、これだけ他人のことを考えられる・思いやれるって本当に凄いことだなぁと思うのです。

 

 

しかし、その反面、SNSで繋がる人たちの無関心さや 災害掲示板に投稿する方の無責任さが目につくようになったのも確か。
オレのSNSで言えば、600人近くが”サイレント・マジョリティー”としてご自分の位置づけをされてるのかもしれないが、それって マジョリティでも何でもなくって、ただの傍観者でしかない。

SNS上の統計理論で言えば、今回オレが投稿した記事2件は、3万人を超える人が見た計算になる。しかし実際にご協力くださったのは、その「76.9分の1」程度の方々。
他の方が投稿されている災害情報の記事なんて、とっても有益な情報だったりしてもシェア数は多くて30程度。「あんたら、人のために指先1本も動かんのかい!」と言いたくもなる。
しょせん、『対岸の火事』なんだろう。

 

《やらない偽善より、やる偽善》
この10年の間に、こんなに多くの災害があって、多くの日本人が大変な目に遭っても、この言葉が全く浸透しない風潮を実に残念に思う。
いや、もしかしたらSNSでは動かないが 莫大な寄付をしようと考えられてるのかもしれないし、誰にも見えないところで大きな貢献をされてるのかもしれない。

だったら、「今日は⚪︎⚪︎さんと こんなに美味しいお肉を食べました〜」や「仕事が休みで⚪︎⚪︎に来てめっちゃ酔ってます!」な投稿は、もう少し時間が経ってから「ちょっと前に⚪︎⚪︎でした〜」のほうがいいように思う。(お前にカンケーないだろ!と言われりゃ それまでなんだけど)

”やる偽善”の方にカテゴライズされるかもしれないけど、災害が起こると すぐに出てくる「チャリティで歌を歌います」という御仁たちも ちょっと考えた方がいい。今はそれ以外に出来ることが間違いなくあるはず。
「ライブでチャリティ・グッズを販売します。その売り上げの一部を寄付します」って言いながら自分の名前の入ったグッズを売るのもダメ。そんな事すらも分からない人に、他人の心を打つような歌が書けたり唄えたりするはずもない。

 

まぁ、そんなこんなで、ここ数日の間に色んなことがある。
明日からも また色んなことがあるだろう。
オレ自身、まだ地元に行けてないから、人のことを とやかく言う資格はないのかもしれないけど、ようやく昨日未明に国道31号線が復旧し、広島市内から地元に入れるようになり、これで物流も少しは変わってくると思うので、スーパーやコンビニに商品が余るくらいになれば、スグに帰ろうと思ってる。
それも、過去に色んなところにお邪魔して経験させて貰って知ったこと。

それまでは、どれだけ悶々としようが、どれだけ気持ちが焦ろうが、今の自分にできることを一生懸命やらせて貰おうと思っている。
それが「偽善だ!」と言われても上等、「偽善で何か悪いすか?」くらいな心の持ちようで、現地で動いている人たちのお手伝いを喜んでさせて貰うつもりだ。

 

さて、最後に<ウォーター・ボーイズ&ウォーター・ガールズ>の活躍の様子を見ていただきたい。
給水所で朝から夕方まで交通整理をして、今や「交通整理のエキスパート」とまで呼ばれるようになった保護者のお母さんも素敵だ。

 

 

このたびの水害で被災された本当に多くの方に心からお見舞い申し上げます。
そして、その水害の犠牲となり亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

制作者のハードル(激辛メニュー的なw)

またまたご無沙汰しておりました。

ここのところ”昼型人間”的な生活習慣になっているからなのか「あ、Blogの更新しとかんと。」と数日前からチョイチョイ思ってたので、忘れないうちに書いとこうかなと。

 

午前7時前後に起き出してテレビをつけると、相変わらず朝から、残念だったり腹立たしかったり耳を覆いたくなったりするようなニュースばかりで、モーニングコーヒーの味も心なしか苦目に感じます。

ネットニュースを見れば、そのニュースのコメント欄には様々な言葉が並び、またちょっとウンザリ(苦笑)。

「いつから こんなにギスギスした国になったんだろう?」
と不思議になるのですが、引きこもりのオッサンがチマチマと毎日作業している間に、日本は、そして世界は物凄いスピードで動き、変化していってるんだろうなと。

その情報量の多さは「これに付いて行くには、自分のアタマん中に どんだけメモリ積まんといけないの?」と想像を超える量なので、知らないなら知らないでイイかなと諦めにも似た”逃げ腰モード”だったのですが、それはそれで《無関心》ってことになるのかなぁと別の意見が自分の中に芽生えてきたので、苦く感じるコーヒーを啜りながら ちょっと考える。

 

「こんな、ちょっとギスギスした生き辛い世の中を、音楽やエンタメで少しでも和らげることって出来ないもんかなぁ」

そう思って ちょっと顔を上げて、音声を消した(もう音声があると滝のように哀しい情報しか入ってこないので)テレビの画面を見た瞬間、

『万引き家族』。

 

思わず「おいっ!」って自分にツッコミ入れたくなりました。

で、仕方なくiPadでネットニュース見たら

『孤狼の血』。
『終わった人』。

 

・・・いや、作品は観てないですよ。観てないけども。。。
きっと、間違いなく素晴らしい作品なんだと思いますよ。多くの人が絶賛されてる作品ですし。

でもね、よりによって、オレが何年かぶりに この国の今の状況を憂いて「よし、ちょっと考えてみよう!」と思ったタイミングに このタイトル3連チャンしなくても(苦笑)。。。

けど、「どんな内容なんだろ?」と ちょっと気になってます(笑)。

 

これだけ毎日いろんなニュースが飛び交ってるのだから、日本人の感覚も麻痺してしまってる部分があるんだろうなと。
だから、激辛メニューじゃないけど、麻痺した舌にピリッとしっかり刺激のあるタイトルにしないと、世の中は見向きもしないのかもなぁと思ったのです。

音楽もエンタメも、少々麻痺してしまった舌にのせても「ウマイ!」と感じてもらえるものを作ってかなきゃいけないってことなんだろうなと。

 

なんか どんどん制作者のハードルって上がっていってますなぁ。。。
某監督さんが「我々は、”誰かの人生の中の2時間”に お金を払って観て貰えるものを作らないといけないんだ」と仰ってましたが、本当にその通りだなと。

だからこそ、そこに関わるオレらは、”そのためのクリエイティヴ”ということを日々考えながら作品を作っていかないといけないんだなぁと思うのです。

 

”そのためのクリエイティヴ”。。。
ちょっと激辛メニューでも食べて、「ベロが痛い!」なんて言いながら、涙と汗を垂れ流して考えてみます(笑)。

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桜島、見たことあります

春を通り越して 初夏のような暖かだった日の夕暮れに、「ついさっき祖母が亡くなった」と母親から電話があった。91歳、大往生と言っても良いだろうと思う。
昨年の暮れあたりから、もうそろそろのようだとは聞いていたが、いざ そうなってみると全く実感が湧かなくて、なんか自分が悪いことをしているような気になる。

ここんとこ ずっと書いているプロジェクトの現場がまさに進行中で、かなり大掛かりなスコアをパッツンパッツンのスケジュールの中 現場に送らなければならず、必死に画面に音符を打ち込んでる最中だったので、「申し訳ないけど通夜も葬儀も出席するのは ちょっと厳しいかもしれん」と母親に伝えると「仕事があることが有難いのだから、仕事を優先しなさい」と言ってくれたので少しだけ心のつっかえが取れたような気になった。
50年近く、今も現役で商売してる母親だからこその言葉だった。有り難かった。

 

小さい頃、親父はほとんど家にいなかったし、母親もずっと仕事をしていたので、オレら兄妹弟は祖父と祖母に育てられた。
20数年前に祖父は他界しているので、育ててもらった恩から考えると、祖母の通夜にも葬儀にも出席しないというのは かなりバチ当たりであることには違いないのだが、「親の死に目にも会えないと覚悟しろ」と今でも当たり前のように言われ続けている業界で仕事をさせてもらってて、その仕事の真っ最中に「肉親が亡くなったから地元に帰ります」などとは絶対に言えないし、進行中の作業を仕上げて送らないと現場にいる100人近くの方たちに迷惑がかかる・・・そんなことを言い聞かせながらも 悶々しながらPCと向き合い、黒塗りのオタマジャクシを淡々と打ち込んでいた。

そうこうしてると1時間ほど経って現場から連絡が。
「事前に必要になったので、明日中に仕上げて送ってくれないか?」と。

普通なら「必死に作業してますけど、絶対に無理です。ちょっと勘弁してもらえないすか」な感じなのだが、「あれ?コレを仕上げたら葬儀には間に合う?んじゃね???」という思いがアタマを過ぎり、そこからメシも食わず 必死のパッチ、ヘロヘロになりながらも火事場のナントカで仕上げてデータを現場に送った。
「ありがとう。あとはこっちで手書きで書き込みます。お疲れさまでした」とOKの連絡が入ったのが午前5時半、本来であれば現場から変更や手直しの連絡が入るまでは待機してるのだけど、「変更がきたら新幹線の中でやる」と決め、スーツケースに喪服や着替えなどを詰め込み、とりあえずの機材やPCを持ってスウェット姿のまま東京駅に向かった。

 

地元に着くと、すでに収骨も終わったあとで 結果的には間に合わなかったのだが、久しぶりに家族が揃って晩メシを食い、そして その後 25時過ぎまで母親と二人で色んな話をした。
「お袋と こんなに長時間 二人っきりで話したの、生まれて初めてかもしれんなぁ」と思いながら、わりとトンチンカンな母親の愚痴を笑いながら聞いていた。

 

で、翌日。
どうせ広島まで帰ったのだから、そのまま足を延ばして 現場に顔を出してみようかなと。
東京駅に向かう前に ふと思いついてプロデューサーに連絡し、「ぜひ どうぞ」と言っていただいたこともあって、そのまま鹿児島へ。

 

以前プロデュースしていたオムニバスLIVEや、アーティストのツアーサポートで これまでに何度か訪れた鹿児島だが、実は これまでに桜島を見たことがない。
何度もお邪魔したCAPARVO HALLの楽屋からは桜島がドーンと見えると毎回イベンターさんから聞かされているにも関わらず、台風直撃だったり 曇天だったり ガスってたりで、かろうじて下半分だけを1度見たきりである。

今回お邪魔する町は、鹿児島中央駅から車で4時間ほどの九州最南端の町なのだが、以前 地元の方から聞いたハナシによると桜島はドッカーンと(ご本人談) 見えるらしい。
「え〜っ!?桜島を見たことないですか!?ぜひ来てください、必ず見れますから」という言葉を運転しながら思い出しては 期待で気持ちが高ぶる。

高速道路から見える、ちょっとした大きな山を見つけるたびに「あれが桜島かなぁ」とナビを見る・・・全然違う(苦笑)。
そうこうしてると夕暮れの時刻になってきた。あと60kmほどで現地に着く予定なのだが、未だ桜島は見えていない。
どんどん薄暗くなっていく海沿いの道を走りながら、現場で「桜島、見ました?」と聞かれ「いやぁ、今まで何度も来てるんですが一度も見れたことがないんですよ」と答える自分をシュミレーションしていた時、右ナナメ後ろに大きな影というか異物のような気配がした。

 

「わっ!」
・・・一瞬だった。
すぐに携帯で写真を撮ったが、あとから見るとピンボケで 上手く写ってはいなかった。
でも、、、、、桜島、見ました!
「桜島、初めて見ました!」と車の中で独りで何度も呟いた。

 

 

 

 

午後8時、かなり冷える夜の現場に着いたら、自分の曲が爆音で流れ、百人近い方々が動いてらっしゃる真っ最中だった。

翌日は、各場面の現場を一人で回り、夕方から重要な場面であるあぜ道に座って、その前方にある大きな大きな崖を眺めていた。
千年以上前からあるこの崖と この道。
数え切れないほどの人が、ここを どんな気持ちで歩いてきたのだろう?、そんなことを思いながら日の暮れた真っ暗なあぜ道に座ってると、なぜか泣けてきた。

なんで あんなに涙が出たのだろう?と今考えてもよく分からないが、悲しくて泣いたのではないことは分かる。
なんだろうなぁ・・・自然の大きさに圧倒されたのかなぁと思う。

 

さて、先週末から その曲を書いている。
どう説明すればよいのか分からないけど、なにか”書かせてもらってる”ような感じが ずっとしてるから、まだちょっとフワフワしてんだろうな。
気合い、入れます!

 

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